常盤新平の『遠いアメリカ』

山口瞳の『行きつけの店』の「あとがき」に出てくる、繁ずしは、ボクの行きつけでもある。この春に大将(83歳)が店頭で転んで怪我をしてからは、もっぱら女将さんが寿司を握っている。昼はヴォランティア価格の千円。あるとき、山口瞳の弟子の常盤新平の娘さんがカウンターに座っていた。聞くと、代表作は『遠いアメリカ』だという。
読んでみると、まことに、この表紙のボンネット・バスのように、懐かしさにあふれた本。
ハンバーグは知っていても、ハンバーガーというのはどういうものか、見たことがない。クリーネックス・ティシューがどんなものか、見たことがない。英文科大学院にいても、シェークスピアとかジョイスとか、メジャーな作品には惹かれない。ペーパーバックや雑誌の安っぽい作品を読み漁る主人公。このままで仕事があるのか、生活できるのか、分らない。恋人の椙枝が「わたし怖いの」というのが、この本のキモだろう。不安に震えながら抱き合う、というのは、こういう時期にしかできない。
郷里の福島から父親が上京して、上野で落ち合う。同じ東北出身のボクは、上野なんか見たくないし、歩きたくもない。ひたすら日本の第三世界・東北の下層民市場のゲートとして、暗く、汚いところ。それなりに息子を案じる父親と、適当に応じる、不安定な息子。懐かしいというよりは、もう思い出したくもない。いわば世紀転換期にウィーンに出てきた、チェコやハンガリーの田舎の子弟のようなものだった。富裕層がどういう人たちなのか、自分がどれだけ貧しいのかも、とにかく展望がきかない。暗中模索。でもこれは周囲の世界も同様だった。『エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン』(日本では1956年創刊)とか、自分の悪癖が市場に対応し、生活の場になる、というあたらしい状況も形成されつつあった。こういう人たちが、手探りで昭和、平成の世界を造ってきたわけだ。いまは各大学にキャリアセンターなんぞがあって、分岐した選択肢一覧をあっさり見せてくれる。小説の主人公のような「彷徨」ができない、今の学生は幸福なのだろうか。