新国立劇場『こうもり』

今回の『こうもり』は、なぜかパーカッションに注意が向いた。一幕後半 No. 4 の三重唱はハ短調で「神よ、なんと悲しいこと!」と歌ってから、ハ長調に転じて「o je, o je, wie …」と浮き浮きした二拍子に変わる。そこに小太鼓がバララッと入ると、一気にこれから今夜の愉しみに気もそぞろな三人の嘘つきが、そして二幕を楽しみに待つ聴衆の気分も盛り上がる。(甲子園球場では鳴りっぱなしの太鼓だが、オペラでの一打ちの効果は絶大だ。)それからアイゼンシュタインの小道具の懐中時計の音。いかにも高級そうな、あの澄んだチンチンいう音は何を叩いて出しているんだろう、と双眼鏡でパーカッションを注視したけれども分からなかった。グロッケンシュピールなのか、それ用のベルなのか。三幕では追い詰められたロザリンデの切り札として、チンチン鳴る重要な音。最後に二幕の最後にEの音で朝の6時を告げるコンサートチャイム。これも双眼鏡で覗いても、叩くところは見えなかった。遠くの教会の鐘、という感じを出すために、どこか奥まったところで叩くのかも。身分・階級をご破算にしてカップルたちが「dui-du」と一斉に歌うユートピア的な瞬間は、このチャイムであっさり終りを告げる。この六点鐘は全三幕のなかでここだけなのだが、序曲にも取り入れられている。陶酔から素面に戻るきっかけなのだろうか。恒川隆男氏が「『薔薇の騎士』のテーマは時間である」と書いたのは、もう50年近く昔のことだった。元帥夫人はおのれの老いを受け入れて、オクタヴィアン(薔薇の騎士)を若いソフィーに譲る。自分の時間が終わったことに気付かないオックス男爵は恥をさらす。ひょっとしたら台本のホフマンスタールは、『こうもり』を観て構想を得たのかも。
さて。新国立劇場で『こうもり』序曲が終わった直後に、最初に拍手を「パンッ」と入れたのはボクです(とても勇気が要る)。そして満場の拍手。指揮のクリストファー・フランクリンは虚を突かれたように半分身をよじって客席に会釈していた。東フィルの演奏は(少なくともボクの耳には)完璧。平日にウィーンのフォルクスオーパーあたりで『こうもり』を聞くと、「あー、またか」という感じで弾き流す( or 流してるんじゃないか、という)感じがしたりするが。
同じ新国立劇場の『こうもり』を林真理子が聴いて「心の底から感動した」という(週刊文春新年号)。彼女がオペラ通から聞いたところでは、今、歌うことができるのは東京しかない(欧州もメトロポリタンも閉鎖)、歌手たちは魂をこめて、舞台で歌える喜びをぶつけているのだそうだ。はからずもコロナ禍のおかげで、希有な公演に立会うことができたわけだ。
個々の歌手についてあれこれ言うまい。(なにしろ――自慢じゃなくないが――その昔ウィーンのシュターツオーパーで、グルベローヴァのアデーレ、エーリヒ・クンツのフランク、ルチア・ポップのロザリンデ、ヘルムート・ローナーのフロッシュで『こうもり』を観たあとは、もう贅沢を言うべきではないと思っている。)それでもロザリンデ役のアストリッド・ケスラーのチャールダーシュは結構でした。
二幕半ばで登場するハンガリーの侯爵夫人、じつはロザリンデが、偽物でないことを証明するためにチャールダーシュを歌う。ここは下手をすると、宴会の余興のような安っぽい歌になってしまう危険がある(実際目撃した)。ところが東フィルのオーボエ、フルート、クラリネットは、出だしの低音部をじっくりとサポートし、ケスラーも歌声を持続して、その後の高音部につなげた。ここからチャールダーシュは本物になった。ひいては二幕の成功につながった。いちおう新国立劇場の動画を貼り付けます
新国立劇場『こうもり』
三幕のフロッシュにはがっかり。ウィーンの『こうもり』のように、フランツ・ヨーゼフの肖像を掲げてやれないのは、まあ分かるが。ここのフロッシュは(一曲も歌わない、だからヘルムート・ローナーのような演劇人がやれる)、時事問題などに毒のきいた当てこすりをやって、幕間でワインを飲んだ客の喝采を浴びるところだ。いっそビートたけしとか、思いっきり毒のある芸人を起用したらどうか。爆笑問題の太田光でもいい。(でも、本当に寸鉄政府を刺すような演劇人はいるのだろうか?)
この公演は、姪とその娘二人を招待して観た。高三と中三。まだちょっと早いかな、とも思うけれども。まあ女子はマセているからね。一幕の最後に郵便配達夫が手紙を届けたのは、「ファルケ博士がロザリンデをこれで夜会に招待した、という新しい演出なんだよ」と高三に話したけれど。まったくピンと来ない様子だった。こんな風に、年寄りが若い人びとに伝えたいことはあっても、伝わりようがないケースがいろいろあるんだろうな。
終演後はマエストロでお食事。メニューの紙に、出演者たちのサインが入っていた。結局日本人のサインしか識別できなかったけどね。

 

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