ヨーゼフ・ホフマンとスタインウェイの謎(1)

「ホフマンは非常に小さい手をしており」(ウィキペディア)と出ているように、ヨーゼフ・ホフマンの手の小ささは「神話」(Gregor Benko)になっている。それはどの程度だったのだろうか? スタインウェイは彼のために鍵盤巾の狭いピアノを特製したという。どんなピアノだったのだろうか? その前にまずはスタインウェイのど派手な写真を見てみよう。(この画像は©フリーで、ポスターなどにも使われているらしい。)

「ぼくの衷心からの願いは、ぼくが打鍵する最後の音、最後の和音は、スタインウェイであってほしいことだ!」と、このど派手なシーンを使って、20世紀の伝説的巨匠と、彼に認められた楽器メーカーが強くアピールしている。(ヨーゼフ・ホフマンはもう、アピールする必要はなかったかも。当該のURLは→
ヨーゼフ・ホフマン メトロポリタン歌劇場
ヨーゼフ・ホフマン(1876年~1957年)の没後60年を過ぎてもなおポスターとして現役である。(なお日本のウィキペディアでは「ヨゼフ・ホフマン」でしかヒットしない。ウィーン分離派のJosef Hoffmann と区別する必要からかもしれないが。(ピアニスト)、(ウィーン分離派)と付記すれば充分なのでは。ピアニストのホフマンが生まれたのはクラコウ近郊のポドゴルツェ Podgorze で、当時はハプスブルク帝国に属していた。フランツ・ヨーゼフ皇帝にちなんでフランツとかヨーゼフという名前が多かった、と池内紀が集英社文庫『ユリシーズ』の巻末エッセイに書いている――ただし当時のユダヤ人の名前について――。ホフマン本人が「ヨゼフ」と名乗っていたのだろうか。とにかく誕生時の公用語はドイツ語だったから、公式にはヨーゼフだったはず。またアメリカでは「ジョゼフ」と――すくなくともテレビ番組のアナウンサーから――呼ばれていた。)
神童伝説 父は作曲家で指揮者、母は歌手。5歳でワルシャワでデビューリサイタル。モーツァルト少年と同様にヨーロッパ演奏旅行、11歳~12歳にかけてアメリカ演奏旅行。1913年(37歳)にペテルスブルクの市の鍵を授与された。アントン・ルビンシュタインは7歳のホフマンの演奏を聴いて、未曾有の才能と評価し、1892年ドレースデンのヨーロッパ・ホテル(Hotel d’Europe)で二度にわたってレッスンを授けた(42回のセッション)。ルビンシュタインの唯一の個人レッスンだった。1894年3月にハンブルクでホフマンはルビンシュタイン作曲のピアノ協奏曲第四番ニ短調を弾いた。指揮はルビンシュタイン自身。そしてルビンシュタインはホフマンに、もう教えることはないと告げた。同年11月に師は死去した。
天才伝説 ホフマンは1912年~1913年の連続演奏会で255の異なった作品を(もちろん楽譜なしで)弾いた。ロシア演奏旅行のとき、プログラムに予期せぬ曲目、ブラームスの『ヘンデル変奏曲』が載っていて驚いた。弾いたことはなく、2年半前に楽譜を見ただけだったが、コンサートでは迷わずその曲を弾いた。フランツ・リストに『ローレライ』という曲がある(らしい)。ホフマンははじめてヨーゼフ・レヴィンヌ(Josef Lhevinne)がその曲を弾くのを聴いた。その日の晩のコンサートのアンコールで、彼はレヴィンヌが弾いたとおりに『ローレライ』を演奏した。ホフマンは友人のゴドフスキ(Godowdky)のスタジオを訪れて、彼が Fledermaus を作曲しているのを聴いた。(ヨハン・シュトラウス『こうもり』Fledermaus の変奏曲かも。詳細は不明。)一週間後に再訪したホフマンは、Fledermaus を聴いたとおりに再現した。ゴドフスキはまだ曲を楽譜に書き留めてもいなかったという。(シェーンベルクによれば、この Fledermaus はゴドフスキのもっとも洒落た、そして複雑なピアノ曲である。)などなど。
ラフマニノフは40歳台にしてコンサート・ピアニストとしてホフマンのレベルに達し、維持するために一日15時間の練習を自分に課したという。(ラフマニノフが一日15時間? じゃあ凡才はどうすればいいのか?!)ラフマニノフは、ホフマンのショパンのロ短調ソナタ(Op. 56)を聴き、同曲を自身のレパートリーから外した。「ルビンシュタイン以来、これほど titanic な演奏は聴いたことがない」。
アル中 1930年代にアル中になり始めた。素面の時は演奏レベルを維持していて、ルドルフ・ゼルキンやグレン・グールドはその魔術的な印象を語っている。しかしアル中が昂進すると、聴くに堪えないものになった。オスカー・レヴァント(ピアニスト兼映画スター。ガーシュインの伝記映画『Rhapsody in Blue』(邦題:アメリカ交響楽)にも、映画『パリのアメリカ人』にも出演している)は、「ホフマンの最後の演奏会は拷問だった」と語っている。1946年にカーネギー・ホールで151回目の、最後のコンサートを行い、1948年に引退している。
テレビ中継 1945年、ということはアル中になって引退がもうすぐという時期に、ベル・テレフォン・アワー(the Bell telephone hour)というテレビ番組にホフマンが出演した。Youtubeの画面の9分15秒あたりで見られるが、ピアノの蓋の下にもう一枚、共鳴板のような板が設置されている。これはホフマンがスタインウェイに提唱して付けさせたものらしい。17分15秒あたりから、ベートーヴェン『皇帝』の終楽章を弾いている。矍鑠たる演奏に見えるけれども。おそらく数日前から酒を断ってのこと。若干のミスタッチも見られる。1910年代の演奏は、こんなものではなかったであろう。
ベル・テレフォン・アワー

ホフマンの手 やっと本題に来た。「非常に小さい手」とあるが、どの程度の手だったのか。写真でみると、それほど小さくはない。

ショパンのデス・ハンドよりは大きいように見える。ほかの写真をみると、身長はそれほどでもない、というか、はっきり言って低い。あとで分かったことだが、162,5cmである。どうやらこの身長の低さから、「ホフマンの手は小さい」という伝説が生まれたらしい。しかしロンダ・ボイル氏(Rhonda Boyle)が発表しているように、身長と手のスパンの間には、必ずしも比例する関係がない。チビでも手指の巾は大きいというケースもあり得るし、それがホフマンの例であるらしい。

左の写真はPASK(選択できるサイズの鍵盤を求めるピアニスト)のホームページに載っている、ホフマンの手。シュタインビューラー氏は上記のビデオなどから計測して、ホフマンのピアノは一オクターブ 5,8 インチだったと推定した。これはDS6.0 つまり15/16サイズ(ブラザー・ピアノ)と、DS5.5つまり7/8サイズの中間値にある。正確には 因習サイズの14,3 / 16 であって、かなりの細幅鍵盤である。ホフマンの太い指は、黒鍵と黒鍵のあいだに挟まったに違いない。それに対してスタインウェイ社は、なんらかの対応をしたのではなかろうか。たとえば、
ミとファは黒鍵に挟まれていないから、比較的白鍵の上部を打ちやすい。だから白鍵上部の巾を数十ミクロン狭くできる。同様にシの上部の巾も削れる。そして、黒鍵のレ#、ラ#は右に移動できるし、ファ#とド#は左に移動できる。そうすることによって、レ、ソ、ラの白鍵上部はスペースに余裕が出来、ピアニストは打鍵しやすくなる。
このような措置がホフマンのために、スタインウェイの技術者によって行なわれたのではないだろうか? とはいえ、この調整は簡単ではない。一枚の板から鍵盤は切り出されるので、ミクロン単位の職人技が必要だ(当時はコンピュータもない)。このピアノが残っていれば、検証は簡単なのだが、ホフマンの死後彼のピアノは「破壊された」というのだ。なぜだろう?

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