君はショパンの瞳を見たか。

Scheffer によるショパンの肖像(1847年)

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1980年ショパン・コンクールのブロンズ・メダル

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上記メダルの裏側(表かも)。1980と刻印がある。

練馬美術館でショパン展をやっていると知り、あわてて中村橋へ。始めのうちは、現代の画家による連想画など陳列されていてがっかり。しかし「第3楽章・華開くパリのショパン」で(全体は4楽章構成になっている)、アリ・シェフェールによるショパンの肖像を見られたので、来た甲斐があった。
その死の2年前、芸術家サークルのメンバーだったシェフェール邸でショパンは何度もモデルとなったという。ドラクロワのはったりの効いた肖像とは異なり、ショパンはじっとこちらを見ている。その眼。ラピスラズリの藍色にグレーがかかっていて、なおかつ、うっすらと緑っぽい。ウィーン土産に、ガラス玉の中にシュテファン寺院が立っていて揺すると雪の小片が舞い上がり寺院を覆うものがある、その雪がすっかり鎮まったあとの透明さ。余計な感情のバイアスはない。じっと見ていると、こちらの思いがすべて見透かされるような、そしてこの奥からあらゆる発想がわき出てくるような眼。シェフェール渾身の肖像だろう。画集、絵はがき、ネット、どこにもこの眼は再現されていない。
ジェラゾヴァ・ヴォーラ(ウィーンの日本人音大生5人中5人とも、ここにショパンの生家があることを知らなかった)へは、1982年にポンコツ Käfer (フォルクスワーゲン)でオーストリアから向った。当時は閑散としていて、ゆっくりお参りしてお土産も買えた。2つのブロンズのメダルは、もう酸化して真っ黒だったので、酢や重曹で磨いた。1980年の第10回大会だから、ダン・タイソンが優勝したときのもの。右の髪がなびいているものが、第三位に与えられたブロンズらしい。左は図録には収められていないが、練馬の会場には陳列してあった。おそらく入賞者に授与されたもの。5位の海老彰子がもらったと推測される。ボク、 Kurze Finger の宝物だ。2010年ワルシャワで国際ゲルマニスト学会があった際には、バスでジェラゾヴァ・ヴォーラ観光が催行されたが、もう、ディズニーランド化していた。ショパンまんじゅうがなかったのが不思議。もちろんメダル類は売っていなかった。ただしワルシャワの楽器店で「売り物じゃない」というショパンのデスハンドの石膏像を500ズウォチで購入、これも宝物になっている。(2018年6月投稿)
エッチング「ショパンの死」の複製は、ぜひ手に入れたい。デルフィナ・ポトツカ夫人がピアノを弾き歌い、姉ルドヴィカが見まもり、床に跪きチャルトリスカ公妃が祈る。手に顔を埋めるソランジュなどなど。現在のヴァンドーム12番のショーメ(宝飾店)の2階。ほかにもすばらしいエッチングが数多くあった。
ピリオド楽器のコーナーもあったが(図録には見当たらない)、われわれにとって重要な、「当時の鍵盤巾は狭かった」という記述がどこにもない(見たかぎり)。ブロンズのデスハンドはガラスケースに陳列されていたけれど、この手でなぜ難曲が弾けたのか説明がない。至れり尽くせりのショパン展ではあったが、これでは完全とは言えない。
図録(3300円)は高くない。鼎談で仲道郁代が「ショパンの曲はかならず三部構成で、最初のテーマが戻ってくるから、誰でも聴きやすい」というのには納得。また平野啓一郎が「彼は小さいころからマグナート(貴族)の家に招かれて演奏する機会があり、(…)古いヨーロッパの非常に luxury な世界を知っていた。それが新興ブルジョワジーたちに一種の憧れを感じさせたのではないか」と言うのにも納得。プルーストのマルセルも、ゲルマント侯爵夫人の館に近づきたいという執念をもつスノッブであった。
『ショパン全書簡集』(岩波書店)の最初の二冊が出版されていることもはじめて知った。ポーランド語の書簡集はもっているけれども、これで辞書を引いて苦労する必要はなくなりそう。

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