エッセイ、翻訳など
『カルメン』論
   オスカル・ビー著:『オペラ』より 
   Oskar Bie : 《Die Oper》(1913)
早坂七緒・参考訳   
(前半3分の1は本邦初訳)
   ビゼーが魅せられたのは、おおよそトマ (Thomas) の『ハムレット』(1868)のような傾向の音楽だった。 彼はドイツ的なものには、ある種の怯えのまじった畏敬の念をもっていたが、イタリア的なものに対す る愛情をかくさなかった。素質としては、ただの音楽家だった。誰かに作曲を頼まれれば、作曲した。 その依頼が取り下げられれば、それはそれでよかった。ビゼーはいかなる点でも、ふつうの芸術家だっ た。革命的な理念があるわけでも、度外れて知的だったわけでもない。手紙をみれば――弟子のラコンブ に宛てたものが丁度よい――ビゼーが並のレベルであることがわかる。試験には片っぱしから合格したし 、あらゆる賞を総なめにし、的確な演奏と読譜、そして記譜力で有名だったし、恩師アレヴィ (Halevy) の娘と結婚した。友人たちは、ビゼーの即興演奏の素晴らしさを語り、とりわけ同僚のクラピソンの葬 式の際に、ビゼーが弔辞と故人の彼岸への旅を、ベートーヴェンの第五交響曲のテーマを対位法的に演 奏して、グロテスクに伴奏した様(さま)は、語り草になっている。要するに、ビゼーは腕の立つ男で あり、ちゃんとした音楽とはどういうものかを、しっかりと弁えていたのである。ただし、この模範的 な音楽青年には、二つだけ普通でないところがあった。ひとつは驚くべき音楽的着想 (Erfindung) であり 、これは『カルメン』に表れているとおりである。ふたつ目はその突然の死であり、『カルメン』の初 演のすぐ後に、ビゼーは沈黙してしまった。『カルメン』が最初は不評だったこと、ビゼーの後期の作 品も大胆な和声のために(誤解からヴァグナー趣味と評された)反撥を招いたこと、これはビゼーの伝 記の常套句になっている。その法外な、突然屹立するような音楽的天才の輝きは、人間ビゼーの凡庸な 環境のただなかから生まれているのである。
   ビゼーの若書きの喜歌劇『ドン・プロコピオ』(1858-59) は、最近オーベール (Auber) の遺品のなかか ら見つかった。これはロッシーニの子供だ。この『ドン・プロコピオ』からいくつかの曲を救い出して 、ビゼーは『真珠採り』(1862-63) に生かしている。おなじように、『アルルの女』(1872) から2曲を 『カルメン』に引きついでいる。『真珠取り』は2、3の和声上の冒険を別にすれば、通俗的作品の域 をでない。この和声学上の冒険は、ビゼーの色彩感覚の前触れであって、ビゼーはこの色彩感覚を実地 に発揮する機会をもとめていた。ビゼーは自分にあたえられた素材の民俗学的なところに大いに魅力を 感じていた。ボレロと、交響的頌歌『ヴァスコ=ダ=ガマ』 (1859-60) の絵画的な変奏のほかにも、喜歌 劇『ジャミレー』(1872)がエジプトから、『カルメン』がスペインから、『アルルの女』がプロヴァ ンスから、『美しきパースの娘』 (1866) がスコットランドから、『真珠採り』がオリエントから来てい るのは偶然ではない。本書のリリックなオペラ作曲家たちのなかでも、ビゼーはきわだった異国趣味者 であって、その異国の色彩で、力のかぎり作品を彩りつくした。それはその国の純正な色彩ではなかっ たが、きわめて強烈なものだった。
   ジャミレー』において、それははじめて姿を現し、聴衆は唖然とした。これはミュッセの長詩『ナ ムーナ』(1832) からむしり取られた物語で、追放されたハーレムの婦人がキスと踊りによってその主君 をとりもどすのだが、ビゼーはあまたの伝統的な手法を用いてはいる。だがグノーの抒情性、イタリア 風のブッファ、パリ風のオペレッタの響きとならんで、なんとも忘れがたい特殊な色彩をいくつか奏で ている。夢見るようなナイルの舟の合唱、奴隷たちの行進曲のうっとりする掛留音、じつに独特の、エ キゾチックなガゼール〔中近東の叙情詩形のひとつ〕、Almeenの踊り。それは長調と短調の間をゆらめ き、灼熱のオリエントの情熱をおびている。ドーデの『アルルの女』に付した音楽においては、色彩家 ビゼーの才能は、いわば全体にバランスのとれた印象をあたえた。当時は注目されなかったが(レイエ Reyerだけが賞賛した)、今日ではもともとの作品〔劇の挿入音楽〕をこえて組曲として、隠れたオペラ として、救い出されている。悲痛なメロドラマに満ち、重い郷土色をおびた歌曲、カラフルな和声のか ずかず、顫動するリズムにあふれたこの組曲は、舞踊と歌曲を愛好する耳には至福そのものである。
   この独自性は『カルメン』で成熟した。成熟した? 何がなし遂げられたのか、われわれは知ってい るのだろうか? ビゼーは1875年、37歳だった。われわれは『カルメン』を、ヴァグナーと対抗させら れるのが常の、単なる地中海化された音楽とみなすことはできない。『カルメン』は、それ以上のもの だ。すなわちありとある障害をのりこえた、絶対的な音楽的幻想の勝利である。台本も、形式も、感情 も、場面も、いっさいはビゼーの着想の奔流に、根こそぎ呑みこまれた。ビゼーの着想は灼熱の奔流と なってわき上がり、理性をひざまづかせて凱歌をあげる。われわれは脚本家のメイヤックとアレヴィが メリメの小説 (この小説は記録文書の文体で、血と詐欺と動物的な恋慕の支配する灼熱の世界を、ドラ イに書き留めている) から拵(こしら)えた台本が、どんなにがさつで洗練とはほど遠いものだったか を、よく知っている。憤慨しそうな心情の持ち主たちをなだめるために、ミカエラをでっちあげて、彼 女に乙女チックな感情一式を背負わせたのには苦笑を禁じ得ない。
   われわれは音楽に何回もくり返して、古いシンメトリー形式が現れることに気づく。ビゼーが、この 古い形式を越え出ることはけっしてなかった。またわれわれは、レチタティーヴォが後から作曲された ことも、バレエが挿入されたことも知っている。われわれは、これが愛の意地悪やら、復讐、感動、歌 、行列、合唱、フィナーレをちゃんと備えた、正規の、作曲されたオペラであると認めないわけにはい かない。だが、それにもかかわらず、われわれはこのたぐい稀な音楽的な造形力に、際限なくのめりこ んでしまう。どの小節も着想であふれんばかりであり、どのテンポも直情的な激しい気性(テムペラメ ント)で生き生きと脈打っている。この造形力は日常的なものと独特なものとを最も成功した形で合流 させ、歓喜にかがやきつつ踊りくる。この歓喜は、最後には勝利するのだという意識だけが、これらの 諸特徴に賦与できるのである。あれこれの問題が沈黙する驚異の国。ここでは創造力が一瞥するだけで 諸問題は窒息してしまう。驚異の頭脳。ここでは日常的事物と慣習のただ中で、ゆれ動く音のまことに 形而上学的な祝祭が、われ知らず、促されもせず、それを欲したわけでもないのに、祝祭そのものに自 己陶酔することができる。私はここで何十年ものあいだオペラを、そのさまざまな種類を、その運命を 、その公然の、また秘密の力を追求してきた。そのあげく私は再び『カルメン』の総譜の前に坐り、こ のオペラで一切を煌々と照らしだしているものを、神的な霊感としか説明できないまま、この空言を書 きつけている。そしてかりにこの神的な霊感を証明しようとしても、それが空言にとどまることを承知 している。だが、地球の両半球には、この音楽と共に生きなかった人間はもはや存在しない。確かに、 このオペラより立派なオペラも、偉大なオペラも存在する。だが、この1つのオペラだけがかくも唯一 無二に備えている美点を持っているオペラは他には1つもない。その美点とは、音楽に対する感性だ。 すなわち、われわれを悲しませたり喜ばせたりする究極のものを、いくつかの音と拍子の組み合わせだ けで、感知できる自然の形象へと再創造する、音楽というこの天上の芸術に対する感性である。ビゼー がそれをどうやって達成するのか、私にはわからない。私はこの野生の女と、マザコンの息子と、ダン ディな闘牛士が織りなす台本はすべて無視する。『カルメン』が素晴らしいのは台本のおかげではない 。絶対にちがう。台本は劇の土台としてそこにあるにすぎない。それは全く別のものでもよかっただろ う。台本はしばしば、音楽と全く合っていないし、台本はごく一般的に指示するだけである。たとえば 最初の合唱は、この台本に逆らうように恍惚として半音階で上昇する。町の腕白小僧達は天才的な対位 法を誘い出し、たばこ工場の女工達はじつに洗練された和声法で歌う。ハバネラは半音階で滑落し、テ キストは無意味 (sinnlos) に、だが音楽はあまりに官能的に (übersinnlich) に、踊るように進んでゆく。ホ セとミカエラの母を思う二重唱は抒情的メロディの陶酔だ。女工たちの鋭い言い争いの合唱、郷土色の 強いセギディーリャ、エキゾチックなジプシーのテンポ、わくわくするエスカミーリョのボレロ行進曲 、目まぐるしく飛び交うような密輸人達の五重唱の9度音程、自由に揺れ動くホセの歌、帰営時間を告 げるトランペットの挿入を含むカルメンの踊り、たっぷりと思いの丈を吐露するホセのアリア、煮えた ぎるような愛の二重唱、それは苦悩に満ち、くずおれんばかりだ。そしてその高まりとしてのフィナー レ ―― いかにもこれらは、状況を描き出しているのかもしれない。また、登場人物の性格を描写して いるのかもしれない。だがそれらすべてである以上に、ここにあるのは、みごとに純一無雑な音楽その もの (Eitelkeit) なのである。劇の場面を超えておのれ自身に昂奮する、音楽の純粋性である。音楽のこの 純粋性は、少女の目から輝きでる。男たちの歩調から、誘惑の喜びから、権力の意識から、運命と冒険 と死への愛から、人生の秘密と力を露わにするあらゆる重大なことがらから輝きでる。これは楽音の響 きのなかに存在しており、あれこれの劇以上のものだ。これは生命本能を呼び覚まして陶酔に導く音楽 の、豊饒と充溢が、自らのドラマを創りだしている法外なケースなのである。それは音楽が描く、イン スピレーションを得た魂の飛翔に、手に取るように顕れる劇なのだ。しからば、『カルメン』の動機の もつメロディとリズムのニュアンスに注釈をつけるべきだろうか? エスカミーリョのアリアの多様な ハーモニーを解明しろというのだろうか? そのたぐい稀なメロディの魅力を調性を用いて描写すべき なのか? ホセの歌の調性を分析せよというのか? 彼のアリアの終止和音は? このアリアにおける オーケストラの多部門編成については? この管弦楽のハープの輝きを、フルートの音色を、弦楽器の 配分を、金管楽器の楽段を分析しろというのか? 半音階法 ――長3度と短3度をたくみに操り、転調の 際にはその半音を跳び越え、次の調性内では全音階的に進行し、和声的に伸び広がり、オルガン点〔ペ ダル音〕によって補正され、旋律の構造に影響を与えている―― を分析すればいいのか? だがそんな ことをしてみたところで、この愛の二重唱の陶酔のうちにわれわれに立ちのぼる、魂の幻影(ヴィジョ ン)が解明されやしないのだ。ハバネラの誘惑のなかで、町の腕白小僧の悪ふざけのなかで、エスカミ ーリョの歌の誇りのなかで、伴奏なしで戸外に響くホセの歌のなかで、トランペットと競り合うカルメ ンの踊りのなかで、われわれが懐く魂の幻影は解明されない。これらは音楽という生命体の内実 (Leben sinhalte der Musik) と化したのである。もはや様式や時代の変遷も、これを損うことはない。 愚か者の目に『カルメン』は、ただオペラとしか認識されない。まさにそれだからこそ、私はこの作 品について語りたいのだ。音楽がいかなるものでありうるか、それを少々知っていただきたい。たとえ 音楽が転倒しようと、音楽がオペラのなかに嵌りこもうと、音楽がいかなるものでありうるのかを。愚 か者の目は第3幕に『カルメン』を単なるオペラとみなす充分な手がかりを発見する。確かにその後半 は上出来のグノー (Gounod) だ。この部分は由来を示しており、グノーというリズムとメロディと和声 の稀有な達人が透けて見えるところでもある。しかし、密輸人達のリズム、カルタ占いの三重唱、カ ルメンの死の占いの歌、退場前の陽気な戯れ歌の合唱は、それとは別の出自を物語っている。それはオ ペラ・ブッファだ。それはビゼーに、踊るような弾みを与えた。そしてこの推進力はビゼーを、オーベ ール的なもの一切を超えたずっとさきへと導いた。劇的な場面――3幕と4幕のフィナーレなど――では、ビ ゼーは充分な効果をあげる。だが歌い踊るとき、ビゼーは神業を発揮する。彼は性格描写の達人である 。だが天賦の才をもった発明家である。彼の作る交響曲はほどほどの出来だが、短い間奏曲は素晴らし い出来だ。これは分析だ。だが分析が何だというのだ? 闘牛士の登場の歌の動機は不滅である。この 動機は、口ずさみさえすれば、どんな不快な気分も退治してくれた。また、カルメンとエスカミーリョ の短い抒情的二重唱は無上の歓びである――私は何か善いことを思い浮べる。例えば、ロヴラーナ〔アド リア海に面したクロアチアの保養地。当時はハプスブルク帝国領〕の海岸の月光に照らされた静かな晩 などを。そして、残虐な結末に私はわれに帰る。そうではないか。われわれの人生のどんな場面も、さ きほどのような場面と同様に、『カルメン』のどれかの音楽に占拠されている。ホセやミカエラやホセ の母や中尉とは何の関係もない、あらゆる局面が。われわれの経験の1つ1つは、つねに『カルメン』の 一片に付着してしまった。『カルメン』は、生を舞踊と祝祭とみなす、舞踏の哲学の最も高次の意味で 、生の書となった*。これはディオニュソス的奇蹟である。
   私は自分のテーマからはみ出してしまった。もともとは『カルメン』を、民族的な要素をとりいれて 加工した、異国情緒豊かな色彩的なオペラとして描写するつもりだった。『カルメン』はじつに過剰な 要素をのみこんでしまった。この作品は歌劇 (Tragédie lyrique) をはみ出して、これほど巨大に成長したの である。
*原文は Carmen wurde das Buch des Lebens im höchsten Sinne des Tanzes (S. 354) である。ビーが『ツァラトゥス トラ』を踏まえているとみなして意訳した。
付記: 本訳稿は、オスカル・ビーの『オペラ』(1913年)のなかの、ビゼーの項 (S. 351ff.)を早坂が訳 したものである。すでに名作オペラブックス『カルメン』(音楽之友社・倉田裕子訳)において、ビー の文章の後半3分の2ほどが訳出されている。参照させていただいた。数年前に音楽之友社などには伝 えたが(返信も拝受した。当時の編集者は退職されたとのこと)、美学論文はきわめて複雑微妙なので 、まずゲルマニストが訳し、そのあとで音楽美学に関する部分を楽理科出身者などがチェックするのが よいと思う。
   余談ながらオスカル・ビーは、1914年にローベルト・ムージルが『新展望』(Die Neue Rundschau)の編集 者として働いていたころの上司で、別の上司モーリッツ・ハイマンの書簡によると、編集者ムージルと若 い作家たち(W・ベンヤミンも含まれる可能性がある)とがうまく行かない場合にも、事態を収拾できな かったらしい。音楽学者で教授 (Professor)。1913年に『オペラ』を世に問うたばかりで、意気軒昂だった ことと推測される。
 
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