教養演習(オペラとオペレッタ)
エッセイ(エゴン・フォス『ホフマン・物語』解説)
エゴン・フォス
   幻想的オペラ ≪ホフマン物語≫の写実主義(リアリズム)
   (アッティラ・チャンパイ編:オッフェンバック『ホフマン物語』1984年、音楽之友社1988年)

ドイツ語で書かれた美学論文は、そう簡単に読み解けるものではない。

以下は、早坂が原文をもとに訳し直したものである。

『ホフマン物語』の理解の一助にしていただければ幸いである。

<序言><原作への回帰><幻想と写実主義>の各章は省略。
   なお重要事項は、オッフェンバックが『ホフマン物語』を完成させなかったため、これまで部分的、および全体にわたって短縮・削除・補足などの改竄が加えられ、 恣意的に解釈されて上演されてきたこと。1977年にエーザー(Fritz Oeser)が原典による<校訂新版>のビアノ譜を出したこと。エゴン・フォスはこの「エーザーの新版」に依拠して論じている。
(15頁)ワイン樽とミューズ,またはアルコールと純化
   両外枠〔1幕と5幕〕がどこから来たかというと,19世紀フランスにおけるホフマン受容の、些細なことだが重要な部分からである。つまりE.T.A.ホフマンの自伝から, この詩人がアルコール飲料を好んでいたことがわかっていた。そしてまさにこのささやかな事実から,ホフマンはフランスの格別の興味を目覚めさせたのである。フランス人はホフマンを、 アルコールに霊感の源を求め,アルコールによる酔いを,詩的な作り話を創作する推進力とする物語作者とみなしたのである。ひょっとすると彼の物語を読みながら、物語が生まれて来たあの<人工の楽園> の息吹きを呼吸している思いだったかもしれない。オッフェンバックのオペラの冒頭でミュ-ズがなま身の身体でワイン樽から登場することは、この事情を如実に物語る。そしてこの事情は,ホフマンがビー ルとワインとポンスの効き目のもとに,地下の酒場で3つの物語を創作することにより信憑性を得る。酒場はミューズの宮殿として呈示される。もっとも、結局のところわれわれが眼にするのは,自分の創り 出したものを誇る勝利者である詩人ではなくて,飲みすぎて,もうおのれを御することすらできずに,がっくりとくずおれる酔っぱらいである。ミューズが作品の最後でいくら美化しようとしても,この状況 でのホフマンの同情すべきみじめさが存在しないと思いこませることはできない。彼はアルコール中毒のいけにえであって,まったく“桂冠の詩人(poeta laureatus)ではない。なんといってもオペラとい う芸術様式は昔から今日まで社会の要求に応じてきたわけだが,その社会は,以下のような傾向を持っている。すなわち芸術作品の生成に付随した苦悩、あるいはその作品を産み出した苦悩を、何者かが創り 出した大規模な芸術作品を享受することで忘れ、軽視し,さらにその苦悩を真の偉大さの前提であり証明であるとみなして賛美するのである――これはまったくシニカルと呼ぶほかはない。≪ホフマン物語≫の 場合もそうなのだ。ミューズはこうした社会の,その<世論>の擁護者である。このことはとりわけ新版で報告された<終結部>によって明らかになる。ホフマン自身の運命はそこでほとんど背景に退いてし まうので,彼が,芸術という物神のために麻薬に身を委ねた人間が支払わねばならない代償の印象深い例にほかならないことを見過ごしてしまうほどである。 もちろん,以上はある一定の範囲内のはなしである。両外枠の部分は紛うかたなく,飲酒から詩的な力をひき出す詩人のイメージを映し出しているけれども,ホフマンがビールとワインとポンスによって詩の ための霊感を得ようとしてルーテルの地下酒場を訪れるのではないということも、また疑いを容れないのである。第1幕と第5幕のストーリーは,両外枠の部分が暗示するものに矛盾する。ホフマンがアルコー ルを飲むのは、心痛を麻痺させ,不幸な愛を忘れるためだ。かれの酩酊と詩作との結びつきは偶然であって,ホフマンがそうしようとしたわけではない。おそらくこのことから,過去の監督たちは・両外枠の 部分はストーリーから放棄されるべき,あるいは少なくとも彼らの構想の周辺へ追いやられるべきだという結論を導き出したのだろう。さらにワインの精は自分たちが人間の友人であるとさかんに自己宣伝を するが,彼らがホフマンの友人でないことは日を見るよりも明らかだ。エーザーの新版では,彼らはミューズと結託している。ミューズはホフマンが痛みを詩的に表現する喜び以外のものを見つけ出さぬよう ,嫉妬深く見守っている。ミューズは自ら言うとおり,ホフマンを愛している。そして自分を,ホフマンの愛とあこがれに値するあの女性,ステッラのライバルであると思う。ストーリー全体は,ホフマンを 賭けたミューズの戦いにほかならない。二人の関係は――まさにそれが、この解説の眼目なのだが――徹頭徹尾エロチックな性格のものである。作品が伝えようとしているのは、芸術に対する関係はエロチック なものであり,従って――たとえごく普通の恋愛関係であろうとも――他の人間に対する恋愛関係はそこに割り込むすきがない,という観点である。このような観点にしたがえば、もしミューズが負けてステッ ラヘのホフマンの愛が成就したなら,ホフマンの詩業は終焉をむかえることになる。
   現実主義的なオッフェンバックが、ロマン主義に発するこういう見解をとるわけがない、と思われがちである。しかし、別の手によって後から付け加えられたのではないかという疑惑は,新版によっても裏付 けられなかった。また新版によっても,ミューズはホフマンを芸術に留めておくために,ステッラから(及び女性一般から)ホフマンを遠ざける。もちろん,それは従来の版にみられるよりは控え目になされ る。例えば,普及しているスコアや,上述のペータース版のピアノ・スコアでは,ミューズはオペラの終わりに,ヴァイオリン独奏付きの甘く感傷的なメロドラマで,慰めと愛の告白をホフマンに捧げ、ホフ マンはすぐに,まるごと受け入れる愛の賛歌によって答える。この解釈(ヴァージョン)は非常に悪趣味だが(これがオッフェンバックの筆先からすらすらと流れ出たのではないと知って慰められるほど), そして何10年間も,また今でもなお,オペラの揺るぎない構成要素とみなされてきたのだが、オペラの受容にとっては、このヴァージョンはきわめて示唆に富んでいる。この解釈はまた,「昇華」という巷間 に流布した観念に相応するが,それによれば,文化的芸術的業績は、生命力や恋愛やとりわけ性の直接の展開を断念することによってのみ可能だということになる。オッフェンバックのオペラのホフマンが, まさにこの意味で理解されがちであることは,ホフマンが前のヴェネツイアの幕で,高級娼婦ジュリエツタの疑いなく官能的―性的な意味での愛の告白に対して幸福感を表現したのと同じ旋律でミューズに答 えるという暴露的な事実をみても分かる。オッフェンバックには、このように二つの場面を同じものにするつもりはさらさらなかった。新版によれば,ミューズは最後にホフマンに言うべきことを,はるかに 冷静な調子で述べるし、ホフマンがすぐさま彼女に答えはしない。そもそもついに見つかった真の幸福を賛美し、内心を吐露する歌はまったく無いのである。むしろホフマンはさしあたり身動きをしないまま である。それから無感覚から目ざめ,起き上がり,きき耳をたてる。これはある演出家が指示しているとおりである。最後にミューズの慰めと呼びかけが,合唱と重唱とに引き継がれる時、すなわち社会がス テッラとリンドルフともどもミューズの言ったことを強化する時,ホフマンは聞こえたことを小声でそのままなぞるように歌う。しかし,再び黙ってしまう。それから終止のトウツティ(斉唱)が高らかに響 くのである。ホフマンは自らの運命の転回に喜び確信して同意しはしない。彼はやつれ,うち砕かれたようにみえる。もはや自分に下された運命に抵抗する力もなくして,他人につけられた台詞をそのまま口 ずさむ者のように。これは、もはや自分の言葉を見いだせない,つまり自分の専門を見失った詩人である。沈黙の人となったホフマンがその後どうなるのかは、いかにも示されていないが、彼が死ぬだろうと いう結末しか考えられない。ホフマンがミューズの愛と慰めを受け入れるか否かも,分からないままである。おそらく愛も慰めも、ホフマンの耳にはとどかずに、脇を通り過ぎるだけだろう。したがって、従 来の『ホフマン物語』の版にみられるような、天上的なレベルでのハッピーエンド――物語と前後の枠ストーリーの悲劇の後では、まことにぎょっとさせられる――になることはない。そこではまるでホフマン とミューズが,多くの葛藤の後についに結婚という幸福を見出すカップルであるかのようだ。
   ちなみに歴史上のホフマンその人は,愛の幸福の成就と芸術家としての無能という、ないとは言えない関係のテーマを,小説≪G町のジェスイット教会Die Jesuiterkirche in G.≫(夜の作品集Nachtstücke第一部) で扱っている。19世紀フランスにおいてホフマンの作品が広く普及していたことから、オペラの底本となった戯曲の作者ミシェル・カレとジュール・バルビエも,オッフェンバックもその小説を知っていたと推測される。 これに反して,E.T.A.ホフマンの1794年のグワッシュ画法の絵画は知られていなかった。これはオペラの最後でのミューズの役割と驚くほど似ていることがひと目でわかる(上の図版を参照)。絵のタイトルには, ≪幻想がホフマンを慰めるために現われるDie Phantasie erscheint Hoffmann zum Troste≫と書かれている。1912年の初公開以来,この絵は常にオッフェンバックのオペラの終結部と理解されてきた。1981年 ユルゲン・フリムJürgen Flimm演出のハンブルク国立歌劇場公演のプログラムの中にも掲載されている。いわばオペラの演出の正しさを歴史的に証明するものとして,ミューズがホフマンに現われる最後の場面のテキス トと並んで,深く関連づけて掲載されているのである。
   もっとも、この絵の解釈は,絵の内容そのものよりも,むしろその説明文に左右されてきた。というのは,ホフマンに向かい合う姿――言い伝えによれば<ファンタジーの女神>は,オペラでのミューズのように,彼に芸術 に向かうよう指示していない。彼女が与える慰めは,女性との恋愛的―性的関係という幸福を断念することと何の関わりもない。まったく逆である。その幻影は,渋面と仮面ばかりにとり囲まれたホフマンに対して差し出し た鏡の中に,彼が1794年に暮らしていたケーニヒスベルクの社交界の2人のきれいな若い娘を示している。しかも--周知のように――ホフマンが非常に愛していた二人の美しい娘を。従って,この絵の中でホフマンに与え られる慰めの内容は,明らかに,まさに女性への関係であり,当然この関係は,エロチックな性格のものである。たとえ実在のホフマンが描かれた娘とじっさいに親しい関係にあったとは考えにくいとしても。したがって この絵はオッフェンバックのオペラの終結部とはこれっぽっちも関わりがない。なおいえば、この絵の有名な説明文がそもそもホフマン自身によるものかどうか,今日まで明らかになっていない。あるいはそれはこの絵の 最初の出版者,ハンス・フォン・ミユラーHans von Müllerの捏造であるかもしれない。説明文は、オッフェンバックのオペラにあとから刻印を押し、しかもその受容にまで形押しした、当時の芸術及び芸術家の使命 の本質についての,同じようなブルジョワ思想的な観念から生れたのだ。
誰が欺かれたのか
   第5幕は,その進行において、逆行の形になっている。第5幕は第1幕を再び取り上げるのだが、反復は逆の順番に配列される。初めに第1幕最後の学生たちの合唱の器楽ヴァージョンが鳴り響く。 そのあと1幕に対応して5幕の中央部にクラインザックの歌の続きが鳴り,それに続いて学生たちの酒宴の歌の一部が要約される。最後に,オペラの冒頭のワインの精の合唱が回帰する6)。    
6)エーザーによれば.この反復を書いたオッフェンバックの手稿譜は存在せず,最初のリプレツトのみがある。しかし,手稿譜のないことは、この場合、オッフェンバックがワインの精の反復を 放棄しようとしたことを意味するのではない。テキストが第1幕と同じなので,楽譜を再度記す必要がなかったのだ。故に,手稿譜のないことはまさに,オッフェンバックがここで第1幕の合唱を転用しようとしたことの証 明とみなされる。従って、合唱が第1幕においてと同じ調性で歌われるべきであるというエーザーの想定は正しい。エーザーが行なった音楽の短縮があまりにも露骨にみえるとしてもである。
   始まりへのこの回帰は,ホフマンの状況、特に心理的な状況が、終結部においても最初のときの状況とまったく変わっていないということの象徴である。ミューズはホフマンをただステッラから守ったばかりでなく,彼が 見捨てられた不幸な気分から脱することのないように面倒をみたのである。そのために彼は3つの物語で芸術作品を創造し、ミューズと,ミューズによって代表される社会とは,それを楽しむ。彼らはホフマンが芸術作品 の前提である不幸の中にとどまることに関心をもっている。人間がどうなろうと,専らその人の創るものが大事なのである。もっとも、新版が示すように,オペラはワインの精の合唱で終わるのではない。ワインの精の合 唱がへ長調で終わった後,一層明るいイ長調が続く。これはミューズが、それからできごとに関係したすべての人物たちがホフマンと,詩人の魂を慰めようとする終幕の大合唱である。この転換は,先行するもののあとに、 藪から棒に突然行なわれ,「機械仕掛けの神deus ex machina」(急場の予期せぬ救いの神)のような印象を与える。もしかするとオッフェンバックは,いかに不十分な慰めしか施されないかを表現するために、全く 意識的にそのように作曲したのかもしれない。そして社会が詩人を人間として破壊した後に,彼を神々しく変容させる理想化が,いかにむなしく虚ろであるかを表現するためにも。もちろん今日まで,イ長調での終結の重 唱も,ワインの精の合唱の回帰も知られていなかった。従って,出発点への逆戻りも,終結部に継ぎ足された崇拝の場面も、明らかになり得なかった。そのかわりにストーリーは惑わされた天才の十字架の道行きの趣をお びることになった。しかしそれは最後に,彼の真の運命へ,すなわち詩人としての使命の知覚へと行き着く。そしてミューズとの固い絆は,ホフマンの浄化の真実性を示すもってこいのしるしとして機能しているというわ けだ。
   どうやら、その捏造の点でも表現においてもまやかしの、ミューズとホフマンとの<愛の場面>は, 上記のような道徳的な観点からこのオペラに持ちこまれたらしい。これは枠の中の幕の従来行われている順序にも影響している。高級娼婦ジュリエツタの出るヴェネツイアの幕は,アントニアの幕の前に演じられるのが通例 となっている。というのは,もちろんジュリエツタは売春婦以外の何ものでもなく,その行動にはただ軽薄さとシニシズムだけしか認められなかったからである。これに反してアントニアは悪魔のいけにえになる純潔な娘の ように見える。彼女の死は,3つの物語のうちの<本来の>悲劇,人形オランピアから高級娼婦ジュリエツタを通り,純粋で真実愛すべき人間の典型としてのアントニアヘと向かう弓形(アーチ)のかなめ石とみなされた。 そのように見ると,ヴェネツイアの幕を中央に移すことには確かに正当性があるが,この解釈は誤っている。というのは,それはアントニアが実は何者であるかを見誤っており,ただアントニアとジュリエツタとの,従って 品行方正な娘とためらいのない狡猾な高級娼婦との,誤認された対立に依拠しているにすぎないからである。ホフマンはどうなるのか,彼と,これらの女性たちへの彼の愛がどうなるのか,ということが見逃がされている。 アントニアの死がいかにホフマンを深く傷つけようとも,ヴェネツイアの幕でホフマンははるかに決定的な打撃を受ける。鏡像すなわち自己のアイデンティティを失い,心理的に歪められ,破壊されるのである。これが3つの 物語の真の極致点であることは疑いない。エーザーの新版はこの命題が正しいことを証明している。
幸福なカップルのない三角関係
   こんな風に考える人もいるかもしれない、すなわち、前後の枠の部分,つまり第1幕と第5幕のストーリーの基本的な構造は,2人の男性が同じ女性を愛してその対立が争いをひき起こし, オペラによくあるように,愛されなかった不幸者が愛し合う二人の幸福を最後に破壊するという,ありふれた物語だと。ところがこれは外見に欺されているのだ。争いはまったく起こらない。リンドルフが情況を はっきりと把握しているのに対して,ホフマンはリンドルフがライバルであることも,ステッラがホフマンの愛に答えていることも知らない。ホフマンのリンドルフに対する敵意を,恋する男のライバルに対する 憎しみと解釈するのは誤りである。ホフマンはリンドルフを,自分に対して――それも原理的に――敵愾心を抱き,自分を不幸に陥れることを狙っているあの諸力の代表者とみなすのである。しかし,物語が示すよ うに,ホフマンには,ステッラも好意を寄せてくれる者とは思えない。前後の枠のストーリーの根源的要素は,ホフマンが自分の不幸な愛を確信していることである。この確信にいわば固着しているために,彼は はなからステッラを獲得しようとすらしないのだ。彼女の愛をもしかするとまだ得られるかもしれないなどという希望を抱こうとすらしない。リンドルフがライバルであることがわかったとしても、彼は争わない だろう。ステッラを初手からあきらめているからである。
   リンドルフの陰謀によって,すなわちステッラからホフマンヘの愛の手紙が横取りされて,恋人同士の伝達は妨害される。どちらも相手が自分を愛していることを知らない。2人ともむし ろ必然的に,自分の愛が相手からは応えられないと考えざるをえない。ホフマンには何の情報もなく,わずかな希望のしるしもないままである。そしてステッラは、みずから自分のところに来たリンドルフではな い恋人を捜しに出かけた時に、ついに恋人に出くわす。彼女をほとんどそれとわからず,その上彼女を侮辱する酔っぱらいに。あやつりの糸を手にしているリンドルフは,二人にまず幸福を味あわせることすらし ない――オペラの紋切り型に従えば、愛されぬ男はそうしておいてから二人の幸福をぶち壊すものだが。確かに,以前ホフマンに示した愛を,ステッラがリンドルフに与えることはあり得ない。しかし,彼女がおそ らくあきらめからであるにせよついには彼との関係に移行するのは明らかである。オペラのあらゆる慣例に反して,リンドルフは望む目標に達し,真の恋人たちは一度も満足を得られない。せめて死においてひと つになると感じる満足さえもない。
   ついでに言えば,ホフマンはリンドルフとだけ対立しているのではなくミューズとも対立している。ミューズにとってはリンドルフの陰謀は好都合なだけである。リンドルフの企みは,結局はより高い 目標を通して正当化されるようにみえる。というのは,詩人の創造的不幸を保つことに成功したからである。非常に独裁的にホフマンの助言者を気取るミューズがリンドルフの陰謀を妨げないということは,社会は,社会のイ メージに適合し社会の欲求を満足させるものであれば,不法の行動をも黙認する気があるということを物語っている。
感情を隠す(べき)<狂気の>物語
   第1幕の導入部は,だれが手にあやつりの糸を持っているのかをただちに明らかにする。力と展望はことごとくリンドルフと、ミューズにある。なんといってもオペラのタイトルの主人公であるにもかかわらず ホフマンは,もはやあやつり人形同然だ。彼が登場するずっと以前に,出来事の転轍機(ポイント)はすでにセットされている。ホフマンは結末に影響力を持っておらず,自分の主導性によって自らの行動に影響を及ぼそうとも決して しない。あらゆる場面で受け身の主人公である。しかし際限なく酒を飲むホフマンは,ヒーローの通念には合わない。不幸においても痛みにおいても,ホフマンは英雄ではない。ホフマンに登場のアリアがないということが,それに相 応している。相手役のリンドルフが第2番クプレCoupletを独唱するというきわめて習慣的なやり方で自己紹介をするというのに。これは偶然ではなく,ホフマンがオペラの登場人物として構想されていないことに関係がある。オペラ の登場人物は,原則として、自分を感動させることをすべて歌にする。それに反してホフマンは、閉鎖的である。<特性のない男>でもなく感情をもたない男でもないのに。ホフマンはむしろかれのきわめて強烈な感覚を隠そうと気を 配り,自分に対してさえ否認しようとする。仮面の後ろの本当の顔を隠し,世間のエンターテイナーの役へ逃れる。彼が第1幕で歌うクラインザックの伝説は,ステージ音楽であり,ホフマンの聴衆がすでに知っている歌として設定さ れている。歌ったところで,それを歌う者について何も教えはしない。しかし,自分自身の否定、とりわけ自分の感情の否定,そして聴衆たちの願望への順応は,うまく続かない。潜在意識がホフマンをからかい、いつのまにか彼は歌 いながら抑圧された意識の領域に入り込む。クラインザックについての非人間的な朗読調の歌は,突然ステッラヘの狂信的熱狂的な賛美歌になり,それとともにホフマン自身思いもよらない彼の自画像になる。これは伝統的なオペラの どんな登場のアリアよりも,ずっと本物にみえる。歌っているうちに感情が吐露されることによって,オペラの常套的な段取りとしてでなく,いわばリアルな情動として理解され受けとられることによって,一層高次の信憑性を獲得す るのである。
   この曲の部分と部分のコントラスト、すなわち,定石通りの歌の進行と思いがけない脱線との対照、しらじらしい物語詩ふうのクプレとアリア的な感情のほとばしりとの隔絶は,ホフマンが持っている和解し難く 矛盾した二つの要求の緊張を具体的に示す。すなわち,真の感情を直接偽りなく表現したいという秘かな願望と,自分の感じやすい魂を意識的な閉鎖によって外傷から守ろうとする意志との間の緊張である。その葛藤を解決するホフマン の方法は,彼の本職すなわち詩作である。枠の内側の3つの幕で示されるように,詩作は自らの考えと感情とを詩的な形すなわち芸術形式としての物語へ移すことである。この方法によれば,屈折したかたちではあるにしろ,少なくとも 自分自身の部分的表現が可能である。しかし何よりも,詩的な形式は、現実から、すなわちこうむった痛み,ひき裂かれた傷,ステッラヘのホフマンの不幸な愛から目を逸らさせる。確かにホフマンは,自分と,自分の物語ること――す なわち自分が体験したと主張するもの――との間の関係をうちたてるが,出来事を過去へ移す。すべてがとっくに過ぎ去ったことで,もはや自分はそれと無関係であるかのように。彼は自分をそれほどまでに捕えている<現実>を,見た ところバラバラの3つの物語に細分化することによって,見分けられないほど形をゆがめ,魔法のおとぎ話ふうの細部を付け加えて,非現実という雰囲気に包み込む。これがホフマンのアクチュアルな状況であろうとは,誰が見抜けようか!
   酒場の聴衆がエキゾチックな魅力として楽しんでいる,物語の幻想的な無気味さは,ホフマンにとっては,何よりも圧倒的で見通しのきかない世界、人間と真の人間的生活とを破壊しようとしている世界の比喩 である。ホフマンの3つの物語には,告発のようなもの,助けを求める叫び声とでも言うべきものが隠されている。詩的な作品化はしかし、叫び声を聞こえなくしてしまい,そうする代わりに、不幸を美的に鑑賞できるものに変えてしま う。第1幕最後の合唱がこのことを証明している。それはホフマンの聴衆の合唱で,ホフマンの物語が社会にとってただ現状の快適さを高めるためにだけあるのだということがまざまざと明らかになる。物語はタバコやビールのような嗜 好品である。それが聞かれる前にもう初めから<狂気の>と銘打たれることによって(<狂気の物語une folle histoire>),それがたとえまじめな物語であっても,まじめに受けとられず,まじめに受けとる用意もなされていな いことが明示される。快適な場所でビールとタバコに囲まれて坐り,他人にこの世で体験したことを語らせる。これは,臆病と落胆のせいで何ごとにも関わりあおうとしない,ストーブの後ろの小市民を思い起こさせる。よりによって 学生が、つまり伝統的に特に解放的で自由で,冒険や大胆な行為を進んでしようとするものと思われている学生たちが,こういう小市民的な立場をとることで,彼らが体現する社会の仮面が剥がれる。ホフマンは自分の小説の中で彼ら を冷たい無感情なものとして描くことがあるが,それは正当な評価である。それにしては,学生たちの歌う調子は,非常に感情豊かである。それは,男声合唱の,感傷的な抒情をはっきりと思い起こさせる。社会から閉め出されてしま ったためにもはや自分ではまったく経験することのない愛と冒険とを歌う市民たちの。オッフェンバックの作品では,テキストと音楽は互いから離反している。情感豊かな音調は,言葉によってその嘘を暴かれる。というのは,音楽が その物語の感情の世界を表現しているときに、ほかならぬその物語を言葉は狂気と断言し、ほかにすることといったら、ただビールとタバコの消費の喜びについて語るだけだからである。音楽がその音調で本当らしくみせている牧歌が まっとうなものでないということは,拍子の転換によって示される。男声合唱のジャンルにはなじみのない不均衡を構成にもちこむことによって,感情の不安定さを表現しているのである。ニクラウス,別名ホフマンのミューズが,こ の歌に唱和し,その際さらにソリストとして注目をあびることは,ミューズがどちらの側に立っているかをもう一度あからさまに示している。第5幕の冒頭,すなわちホフマンの最後の物語に直接続く幕の初めに,この合唱の楽節が器 楽でくり返される。これは,それまでの物語の<狂気の物語>という評価に何の変わりもなかったということを意味するものにほかならない。
ステッラ
   ホフマンの不幸,痛み,傷害をひき起こしたものが、実際にどのような現実であったのかは、われわれに示されない。前後の枠のストーリーにおける主人公ステッラが全く背景に退いているということが,この作品の 独特なところである。彼女は終結の直前に一度だけ,ほんの束の間登場するが,ソリストとして浮かび上がることのない終結のアンサンブルを除けば,ただひとつの音符も歌わない。 エーザーの新版では話すことすらない。彼女について直 接わかることは,ホフマンヘのつけ文の内容だけである。そこで彼女は愛を告白し,彼を苦しめたことに許しを請い,劇場の楽屋の鍵を贈る。この手紙にコケットリーの形跡はまったくない。そして音楽もステッラが本気であることに疑いを 起こさせない。彼女が最後に登場することがそのことを証明している。なぜならホフマンが彼女の劇場の楽屋へ来なかったという事実が,ステッラにとっては,彼が自分の愛にもはや答えないということだからである。その愛がただの気まぐ れであった女性ならば,わざわざ自分に待ちぼうけを食わせた恋人を捜しに来たりはしないだろう。女性が、日常のたしなみを逆転させて、自分を愛しているかどうかもわからない男性を捜すなどということは,オッフェンバックの時代には なおさら,ほとんど自らの面目をつぶす行為である。あまつさえ居酒屋へ,すなわち純粋の男性社会へ女性があえて入って行くのだから、物笑いになるのは必定だ。
   以上のようなわけで、ホフマンが3つの物語においてステッラに分かち与えた性格づけに関して,アクチュアルな実状は何の論拠も提供しない。ステッラが過去にホフマンに対して悲しい思いをさせたことを彼女自身が 認めているのであるが,その苦痛が具体的にどこにあったのかということには触れられない。したがって3つの物語を聞いたあとで仮定せざるを得ないように,ステッラがホフマンに対して,実際にオランピアのように冷たく,アントニアのよ うに虚栄心が強く,ジュリエツタのように金で買えるのであったかどうかもわからない。しかし,ステッラがこれほど完全に背景にいるということは,彼女とその実際の性格が重要ではないこと、ホフマンが彼女をどのように見なしているか, そしてどのように体験したと思っているかが重要であることを示す。ステッラはホフマンの視野を通して現われる。そしてステッラは,実際に行動する登場人物としてこのホフマンの視野が正しいと証明するわけではまったくないので,次のよ うな疑惑が浮かぶ、すなわちホフマンがこうむった傷に対して,ステッラは個人的な人間としてではなく、ただ,ホフマンに敵対心をもつ世界,ないし敵対するようにみえる世界の代表者として見かけ上責任があるだけなのではないか。このこ とに対応するのは,ホフマンがステッラを変容させた3つの物語の女性たちが,むしろいけにえであって、悠然とおのれの利益を代表していはしない,ということである。彼女たちは自分が生きている環境によって規定されている。ホフマンが ステッラに不正な仕打ちを加えたとしても,ステッラが構成員でありその産物である<社会>というものをホフマンは正確に評価している。
理性と感情,優勢な父親たち
   前後の枠のストーリーの写実主義(リアリズム)は,本質的にリンドルフの人柄と人物像によって支えられている。彼を悪魔的な者とみなしたり,ホフマンが3つの物語の中で変化させた彼の姿と同一視してしまうと, 第1幕と第5幕のリンドルフと出来事とを誤解することになる。非常に多くの演出にみられるように,リンドルフが悪魔ならば,ステッラをわがものにするのに策略など必要なかったろうし,陰謀がうまくいくかどうか不安を抱くこともなかった はずである。彼には魔法の力はない。彼のすることはごく日常的な普通のことであり,その行ないはただ賢く計算され,冷静な理性によって支配され,内的な自制によって規定されている。彼は理性の人であり、ホフマン,すなわち感覚の人, 感受性と幻想の人である詩人とは反対である。ホフマンを不安にさせ,リンドルフを悪魔のようだと思わせるのは,何よりもリンドルフの理性なのである。彼は物語において初めてでなく,すでに第1幕でそのことにとりかかる。しかし,リン ドルフに対するホフマンのあからさまな反感――ホフマンは彼の中に単純に悪魔を見る――には、まさにリンドルフが理性的であることに対する正当な批判が潜んでいる。リンドルフは確かに全く悪霊でも悪魔でもないが,目標を追って行くその 手段には悪魔的なものがある。クプレCouplet(第2番)において彼は、女性のもとで望む目的をかなえようとする場合にどういうやり方をとるか述べている。彼は美しくなく,男性的な魅力もないので,容貌の悪魔的な特徴,すなわち秘密 めいた無気味な外観が生み出す,ぎょっとさせるような効果を利用する。彼は,自分で言うように,恐怖によって勝つ。つまり悪魔と魔力を信じる者の恐怖によって。彼が悪魔であるということではなく,悪魔だと思われることが,彼の目的 を達成させる。リンドルフは未開社会の中の文明人のようなものである。そして必要を満たすために,皮肉に,ためらわず,他人の未開ぶりを利用する。
   ホフマンが若々しい恋人と想像される(せいぜい中年の男性である)のに対してリンドルフは,自らの言葉によれば、老人である。ホフマンの父親であってもおかしくはない。第1幕の,E・T・A・ホフマンの童話物語 ≪黄金宝壺Der goldene Topf≫に対する一瞬の暗示が,そのことを強調している。ホフマンは,学生アンゼルムスAnselmusの役に自分の姿を見,アンゼルムスの愛する娘の父親である文書管理人リントホルストLindhorstをリンドルフと 同一視する(ちなみに、リンドルフという名は,リントホルストのもじりと言えなくもない)。同時にこの暗示が明らかにするのは,リンドルフとホフマンの父と子という位置関係は,親族関係をめぐるものではなく,優勢にある父親と見捨て られたと感じている息子との闘争の問題だということだ。すなわち,E・T・A・ホフマンの童話物語において,文書管理人リントホルストは,学生アンゼルムスが言うことを聞かないので,彼を瓶にあっさりと閉じ込めてしまう――ホフマンはそ こから自力では脱出できない――ということが仄めかされるのである。しかし、ホフマンのリンドルフとの対立が父親や父親役との対決であると証明するのは,もちろんこの印象的な細部だけではない。ホフマンが自分に与えられたあらゆる不運 や不幸の責任をリンドルフだけに負わせるというのは,事実誤認であって、ホフマンの目にはリンドルフが常に行く手をさえぎって妨害する一般的な父親たちを代表していると解釈するほかはない。この父親像はホフマンの3つの物語に刻印され ている。リンドルフはコツペリウス,ミラクル、ダベルトゥットの姿で現われる。3人とも年老いた経験豊かな男で,ホフマンに好意を持っていない。コッペリウスは視覚上の陰謀によって,ホフマンが自動人形に恋をするように仕向ける(彼は ホフマンとオランピアとを結婚させるようそそのかしさえする)。ミラクルはアントニアを死に至らせ,ダベルトウツトはジュリエツタをおとりに使って,彼の鏡像すなわち魂を盗む。父親たちはホフマンの幸福ばかりか,その存在をも破壊する 。これらの父親たちがホフマンにとって打ち勝ち難く強力に見えるということが、ホフマンがリンドルフを悪魔化する理由のひとつである。そういうわけで、物語のなかではリンドルフの具現化であるコツペリウス,ミラクル,ダベルトウツトが 超自然のカと魔法の力とを与えられているのである。彼らに対抗できるものではない。ホフマンはその愛において負け戦をたたかっている。というのは,愛する女性たちのそばには優勢な父親の姿が立ちはだかり,状況を支配してホフマンの幸福 をだめにするからである。第2幕と第3幕,すなわちオランピアとアントニアの物語において,父親は、オランピアの父スパランツアーニとアントニアの実の父クレスペルという2重の姿になる。これらの父親たちも、ホフマンに対しては友好的で なく,対峙している。というのは,そのひとりスバランツアーニはホフマンといかさまの取引をしようとし,もうひとりクレスペルは娘のアントニアとホフマンとの関係を妨げようとしているからである。いかにもクレスペルは.ホフマンによっ てアントニアの健康が脅かされたと考えて,そのような行為に出たのだが、子供の自由にさせようとしない嫉妬深い父親であることは明らかである。ホフマンの愛はここでも,父親のむきだしの所有権の主張にあって,成就しない。
   前後の枠のストーリーと3つの物語は,同じように威嚇的で敵意をもち常に優勢である父親ともいうべき人物たちによって規定されている。これに反して母親はいない。保護し,暖め,見捨てられた子供を慰める 女性の姿は、気立てのよい父親や友人と同様,存在しないのである。ホフマンが体験している世界には避難場所がない。
   父親役を結果として優勢にする力は,何よりも、彼らが自然の出来事と同様人間社会の出来事においてより豊かな分別を意のままにすることができ,これをためらわずに利用するということにある。眼鏡作り職人 コツペリウス,物理学教授スパランツアーニ,そして誰よりもミラクル博士は,その知識を人道的に使いはしない。彼らの行為において自然支配は堕落する。ミラクルは生のためでなく死のための医師であり,コツペリウスとスバランツ アーニは何もない所に生命が実在するかのようにみせる。彼らは感覚的印象を操作する。この倒錯をひき起こすものは競争社会である。そこでは,各人がそれぞれライバルであり,たとえいかなる手段を用いても相手を出し抜くことが重 要なのである。故に,知識は,知識を持たない人びとを十分利用するために用いられ、欺きと偽りに役立つものである。それに関与しないすべての者にとって,世界とそこで起こることは,見通しがきかず、予測できぬ、異質なものとな る。その結果、原則的に不信をもって世界に接することになる。自分が他者の為すがままになることへの恐怖から,人は,最初から相手に悪い企てがあるものと仮定する。この社会の一般的な不信がいかに蔓延しているかは,ミラクルと ダベルトウツトのホフマンに関する中傷的な耳うちを,アントニアとジュリエツタがたあいなく信じてしまうということが明らかに示している。彼女らはたちどころにホフマンを敵対者、反対者とみるようになり,またささやかれた中傷と はまるで反対のことを語りかける自分自身の感情,ないし少なくとも語りかけなければならない感情を、信じようとしない。もちろんミラクルとダベルトゥットは2人の女性の虚栄心と野心を名人芸的に扱う。すなわちアントニアとジュリ エツタが社会的な束縛と機構(メカニズム)によって縛られており,また出世願望と役割行動の刻印をおびているということを,臆面も躊躇もなく利用し尽くす。第1幕で,リンドルフはステッラの召使いアンドレにまさにそのような態度 をとる。アンドレがあっさり買収できるということが,どのような社会で出来事が起こるのかをオペラの冒頭で明らかにしている。ホフマンはこの万人共通の不信を共有しない唯一の人間である。従って、彼は常に欺かれる者でもあり、最 後にすってんてんになる。オランピアをめぐる物語の最後で嘲笑されるなどというのは,まだたいしたことではない。アントニアの死について,ホフマンは少なくともクレスペル自身よりは罪がないのに,クレスペルはナイフをもって 彼に襲いかかる。ヴェネツイアの幕では,ついにホフマンは警官から逃れねばならない。というのは,ジュリエッタのためにシュレーミルを殺害してしまったからであり,それも自分のためではなく,ただダペルトウツトの利益のためである。
虚栄の市
   自動人形オランピアは完璧に本当に生きているように見える。誤用された技術の例であるのみでなく,人間性と生命を欠いた人間の象徴であり,特にオッフェンバックの時代に社会の若い娘たちに与えられていた ような,お定まりの行動パターンの訓練の象徴である。この行動は機械的な動作以上のものを必要としないので,自動人形はそれにふさわしい例証である。この行動を規範にまで高め、それを賞味し,高く評価した社会そのものが、非情 と冷酷とにこわばっているのは自明である。 
   それに較べれば,アントニアには感情がこもっているように見える。ホフマンヘの愛も純粋であると考えられるかもしれない。しかし,この愛は自己中心性によって特徴づけられ,アントニアの尋常でない特性と 素質との影をおびていることは明らかである。アントニアのホフマンヘの関係は,何よりも彼女の声がホフマンに及ぼ1した魅惑に関連している。アントニアは自分の歌の蠱惑的な効果を愛している。そして特徴的なのは,彼女の登場する 場面が,まさにホフマンが彼女の声を賛美したときの記憶に関連していることである。彼女はかつてあのように賛美された歌を歌い,いわばその時の場面を再演する。もちろん,そのさいに経験した幸福感を取り戻そうという目的で。長 い別離の後でホフマンと突然再会した時,アントニアにとってはホフマンの面前で歌うことがこの上なく重要なのである。それはほかでもない,彼女が自分の声の効果を確かめたいからだ。声が魅力を失ってしまったのではないかと,傍 目にも明らかに不安だったからである。故に,歌を禁ずることはアントニアの存在の中枢に触れる。そしてよりによってホフマンがその禁止を強めることは,必然的に彼女のホフマンヘの愛をおびやかすことになるはずである。
   アントニアは,歌と自分の声を,自分に耳を傾けその声の魅力に屈する人々を鏡として経験するだけではない。彼女白身が歌と声の美しさに満足するのである。アントニアは自分の声にすっかりほれ込んでいて, ミラクルに招魂された母親の誘いに従って唱和して歌う時、受ける刺激は性的な喜びの性格をもっているようにみえる。ホフマンがアントニアと音楽との関係――すなわちその声との関係――に嫉妬するのは,実に理解しやすい。なぜなら アントニアは野心を抱いているからだ。ホフマンだけでなく,全世界が自分の魅惑的な声の前ににひれ伏さなければならないのだ。賞賛されるプリマドンナとして、彼女は喝采に囲まれ,賞賛と快適さに包まれていたかった。彼女の目的 は子供に恵まれて普通の日常をすごす,感情の消滅しそうな市民的な結婚ではなく,非凡さと高められた感情に伴われる偉大な芸術家の経歴こそが目的なのである。アントニアのこの野心は,ミラクルの人となりに体現されているように みえる。彼は単なる皮肉な医師,倒錯した医学の代表者に納まりきらない存在だ。ミラクルはアントニア自身の一部である。彼が体現しているのは、栄光に満ちた歌手の経歴に対する野心と,他の人々にとって女神のような存在――いわば この世のものでなく,それゆえ崇拝に値するものであるという――となることの享楽である。もっとも、ひとりアントニアだけの名誉欲の化身ではない。彼はこの種の名誉欲一般の化身である。なぜならすでにアントニアの母も彼に屈した のである。ミラクルはアントニアを恋人から奪うだけではなく,すでにアントニアの母をもその夫クレスペルから奪った。そのように見ると,ホフマンとクレスペルは受難を共有する者同士である。
   アントニアの名誉欲の背後にある支配欲は,ジュリエツタの行動にもより著しく,よりあからさまにみてとれる。ホフマンがほかのすべての男たちと違って,彼女の美しさと性的魅力に魅了されなかったと考える だけで,ジュリエツタの虚栄心は傷つけられる。彼女は自分を抗しがたい魅力の持ち主とみなしており,またその職業がらそのようにみなさざるを得ない。それゆえに、自分がそうであるということを立証するためにあらゆる手を尽くす。 ホフマンが,望みをきき入れてくれるよう懇願しながら彼女の足もとにひれ伏すのを見るのが,彼女の享楽である。しかし,承諾そのものを与えはしない。なぜなら、自らの望みをかなえるために殺人を犯し,その後で自分が欺されていた ことを知らされる者の絶望が,全く格別の満足をもたらすからである。すなわち,他人とその運命とを意のままにできる力をもつ支配者であることの快楽である。
目と声
   ホフマンのステッラヘの結びつきは,本質的に,ステッラの目と声から発せられる魅惑に基づいている。しかしホフマンは、ステッラの目と声が語りかける内容が,まったくステッラの思うこととは違っていることを体験しなければならなかった。あるいは少なくとも体験したと思っている。この幻滅は3つの物語で表現される。そこでは目と声が重要なモティーフである。オランピアの目は――スパランツアーニではなく,コッペリウスの製作したもので、いわく付きのものだが――生命のない装置以外の何ものでもない。同じことが,コツペリウスが<目>として売りに出す眼鏡にもあてはまる。ジュリエツタの目は、ダベルトウツトによれば誰もそれに抵抗することができないものだが,なにかを約束する。その約束が守られないことが初めから分かり切っているたぐいの。人間の意志伝達の最も重要な手段である目が、信用できないものなのである。
   声と歌は,目よりさらに重要な、オペラの中心モティーフである。ホフマンがやむを得ず即興で歌ったクラインザックの唄は、団欒の場で楽しく歌うという枠をはみだすものだったが――彼が意識的に芸術家的行為をしたわけではないにしても――歌うということが(理想的なケースでは)何を意味するのかを明らかにする。声と歌においては,最も個人的で内的な感情が直接、率直に表現される。歌声は魂の啓示のようにみえる。そして,ホフマンの即興演奏がステッラの声の賛美で頂点に達するのは偶然ではない。歌は伝達のひとつの形式であるが,冷静な合目的的な伝達のためではない。ホフマンの体験し理解する歌とは,自分を受け入れ,自分に答えてくれる目標,相手,心を許せる君(Du)を求める表現である。そのように理解されると歌はある親密性を生じさせる。この親密性は、歌に関与する諸感覚の属性からして、精神的なだけでなく明らかにエロチックなものでもある。こうしてみると、 18世紀末にヴイルヘルム.ハインゼWilhelm Heinseらのもとで形成され,いわば伝統として19世紀においても前提とされたに見解につながるものがあるように見える。ハインゼの音楽家物語≪ヒルデガルド・フォン・ホーエンタールHildegard von Hohenthal≫には次のように述べられている。<音は魂の最も感覚的な表現であり,同時に、魂それ自体の中に喚起される純粋な本質Wesenの最も真実の姿である>。これを補って,ハインゼはその著書の別の箇所で述べている。<人が歌うのは,まるで突然衣服をかなぐり捨てて自然のままに〔裸体で〕現われるようなものである>。声と歌がこのように個人的で親密かつ性愛的であると理解され体験されるならば、次のような見解も理解できるだろう、歌と声を公衆の前に,聴衆と社会の前に披露することは,売春に近い,あるいはそれと同等である。ホフマンが3番目の物語において,ステッラを高級娼婦ジュリエッタに、すなわち原則的に誰にでも身を捧げる女性に変えることは,まさにそのことを意味する。ステッラが実際に娼婦であったのか,あるいはホフマンがほんの一瞬の間,彼女を本気で娼婦と見なしただけなのか,それには何の証拠も手がかりもない。
   ストーリーの中で歌う者は皆,ホフマンの理想から遠く逸れてゆく。すなわちいつわりのない個人的―精神的な表現と結びついた声と歌,真の伝達,親密さ,性愛と結びついた声と歌、という理想から。彼らは、ホフマンの生きている社会がいかに彼の想い描く社会のイメージからほど遠いかを如実に見せてくれる。オランピアは必ずと言っていいほど歌いながら登場する。例外的に話すとすれば,紋切り型の<はい>以外には口をきかない。よりによって自動人形が主として歌を利用するということは,ホフマンの理想の転倒である。必然的にオランピアの歌には,ホフマンのイメージを構成する要素がすべて欠けているに違いない。じっさい彼女の歌は型にはまった、陳腐な慣用句だらけである。確かに彼女は輝かしい名人芸で歌うが,ハープが伴奏する歌の出だしのとぎれとぎれのメロディーがとりわけはっきりと示すように,生き生きとしたディナーミクはない。そうはいってもオッフェンバックは,非―音楽性の典型的な例,ないしはデイレツタントが技術的熟達を求めるとこうなるという典型例をあえて作曲しはしなかった。パロディや,さらに誇張をも避け,むしろ社交界のサロンでよく演奏されるような音楽を作曲した。もちろんオッフェンバックは自動人形に音楽性がないことを立証しようとしたのではなく,反対に,いかに自動人形ふうの音楽がサロンで演奏され,楽しまれていたかを示そうとしたのである。ハープに合わせて歌うオランピアの歌は,もし別の舞台作品で別の登場人物によって歌われるならば,ごく <普通の>クプレになるであろうが,ここでは自動人形によって演奏されるという事実によって,社会批判の棘をおびる。この棘は紛うかたなくオペラのストーリーの枠からはみだす性質のものだが。
   アントニアはプロの歌手として歌に最も強く関係しているが、自己中心性と出世への野心とによって、ホフマンの理想を裏切る。このことについてはすでに述べた。物語の3人の女性の中で最も音楽と関わりの少ないジュリエツタは,それにもかかわらず歌を利用する。すなわちむき出しの状態で,模範的なやり方で。第4幕の初めで,彼女が――なおいえば、注目すべきことにニクラウス(すなわちミューズ)といっしょに――歌う舟歌は,表向きは愛の夜と愛の幸福とを歌っている。しかし,歌うのが高級娼婦であるということが,歌から信憑性を奪う。ここで歌われる愛の幸福は買えるものであり,愛の夜は毎日起こり,彼女は任意の品物のように自由になる。ジュリエツタの舟歌は商品を宣伝し,舟歌はコマーシャルソングである。声と歌は,じつは本音とちがうことを、まことしやかに呈示する。というのは,ここで眼目となっているのは、ホフマンの理想とする性愛や親密さではないからである。まして本心を伝えるとか個人的な真の感性の表現などは一顧だにされていないのである。舟歌の官能性とそのエロティークは,ありもしない幸福,ジュリエッタにはそれをもたらす気がさらさらない幸福をまことしやかに呈示する。なお言えば、この曲の響きの最後に起こる殺人ほど、的確にこの舟歌の正体を暴露するものはないであろう。
テキストが音楽を作り出す
   とはいえ舟歌の受容は,いつも前述とは別のものであった。ストーリー,作劇法,スコアといった関係から切り離して単独に演奏されると,オペラの意味が変わってしまうということをこれほどよく実証するサンプルはまずないだろう。舟歌はこうして純粋の<美しい音楽>に低減され,意味や意図は手品のように雲散霧消する。よりによって舟歌が≪ホフマン物語≫の中で最も愛される曲になり,世界的な流行になり,オッフェンバックの最大のヒット曲になったということは,おそらく偶然ではないだろう。甘く寝かしつけるようなメロディを,人びとは背景に娼婦がいるからといって問題視しようとはしなかったのである。
   ストーリー内での舟歌の使い方は,写実的とよぶことができる。舟歌は単に舞台音楽としての機能を果たすのみでなく,その舟歌の性格と,それが歌われる背景との間の矛盾によって、劇場の幻想をこじ開け、観客と聴衆をまぎれもない現実(リアリティー)に向きあわせる。舟歌をこのようにはめ込むやり方は,≪ホフマン物語≫の中の音楽をみきわめる方法の,おそらく最も印象的で最も具体的な例であるが,しかし唯一のものではさらさらない。オッフェンバックは,すでに述べた第1幕最後の男声合唱と,オランピアのハープ伴奏の歌において,似たような矛盾を生み出している。音楽の調子と性格は,常にそれが鳴り響く状況とは全く異なった方向をねらう。そしてこの,両者が離ればなれの道を行こうとすることのうちに、はじめて全体的なメッセージが秘められているのである。このような手法は,和らげられた形で,このオペラの別の場所にも見いだされる。第2幕でスバランツアーニの客たちが登場する際に演奏される古風で冗長なメヌエットは,ここでは――おだやかな言葉で言えば――保守的な層の人びとが関わっていることの証明にほかならないが,これらの人びとはみずから動き回っているサロン世界にまったくふさわしくない者たちである。ありきたりで、少しばかり下品なおしやべりの合唱は,この社交界の人びとのオランピアにたいする賛嘆を表現するが,思いやりや判断の誠実さをはなから嘲笑しているのだ。
    ≪ホフマン物語≫の音楽の本質的な特性は――衆目の認めるとおり、オッフェンバツクがオペラに非常な野心を賭けているにもかかわらず――勿体ぶったところがないことである。オペラ・ブフと似て,≪ホフマン物語≫の音楽は度を過ごすことなく,常に最も簡潔な表現を追求している。序曲が放棄され,その代わりにたった9小節の序奏が本当に手短な簡潔さで置かれているが,このことが,そういった傾向をオペラのすぐ冒頭ではつきりと例示している。この饒舌の放棄は,すべてのもったいぶった劇場的身振りを排除することと一致する。その上、写実主義オペラにおいてさえ、あって当然でもある大いなるパトスもない。それに代わって,オッフェンバックの最も重要な作曲家的要素がある。すなわち,オペラ・ブフのクプレ〔こっけいなリフレインをともなう風刺、時事小唄〕の口調である。それは大げさな口調を放棄して,そっけなく,ほとんど客観的に距離を置いた印象を与える。そのリズムの精密さと,フランス語によって特色づけられたアーチィキュレーションの鋭さは、ストーリーの人物たちが歌わねばならないテキストを,明確に,わかり易くさせる。テキストのわかり易さというこの合理的な正確さは,――これはオペラにおいては、ほとんど例外的だといってよい――同時に,音楽的表現の正確な理解をもひき起こす。なぜなら音楽の表現内容の明瞭さに,次の命題が該当するからである。すなわち,テキストが音楽を作り出す。
鏡のアリアによる変造
   フランスの,例えばアンブロワーズ・トマAmbroise Thomasやシヤルル・グノーCharles Gounodのドラム・リリック drame lyriqueにみられる,ともすると感傷に堕しがちなあの輪郭の弱さは、音とリズムの鋭さによって,避けることができる。オペラ『ホフマン物語』の<醒めた>基本的トーンが背景にあるために,ほとんどホフマン専用のような感情の沸騰はどれも特に目立つことになる。こうすることにより、別のオペラでの主役級の人物よりも強く,純粋で,自発的な印象を引きおこすことができる。第1幕でのクラインザックの歌でホフマンが脱線することは,その最もよい具体例である。このオペラの音楽的な表現の全般的簡潔さは、とりもなおさず、歴史上のホフマンから連想される、いかなる幻想とロマン主義とも相容れない。もっとも、オッフェンバックの音楽が舞台上の(中の3つの幕の),幻想的な出来事をバックアップしていない、ということは,これまで稀にしか,あるいは一度も,本当に確認されたことはなかった。むしろ人びとはオッフェンバックの音楽は常に,それを歌う人物と同じように悪魔的であるかのようにみなしてきた。注目すべきことだが,この見解は信憑性を得るために一本の支柱を必要とした。鏡のアリアのことである。すでに述べたように,これはオッフェンバックの作ではないが,人びとが≪ホフマン物語≫と聞くと想起しなければならないと思う、あの紛うかたなく悪魔的なものを聞かせてくれる。このアリアが人びとのいだくオッフェンバックのオペラのイメージに並々ならず合致したということは,舟歌を別にして,オペラの他のどの曲も鏡のアリアの名声には及ばなかったという事実が明らかにしている。従って,オッフェンバックが書きもしなかった音楽が,オッフェンバックのオペラと同一視されたのである。
   このアリアは魔法使いの呪文の音楽であり,その呪文の音楽という性格はダベルトゥットを秘密と冷気に包み込み,そのために彼はエキゾチックな人物のように見える。オッフェンバック自身がダベルトウツトに与えようとした音楽と比較すると,鏡のアリアはオッフェンバックの本来の意図をまるごと変造していることがわかる。つまり,オッフェンバックは,ダベルトウツトに,後に何者かの手によって――コツペリウスの役に独唱曲を与えるために――コッペリウスの役に編入されてしまった、あのアリアを歌わせるつもりだったのだ。このアリアは(鏡のアリアとは)全く異なった性格を示す。ダベルトゥットはホフマンのほかの相手役,すなわちリンドルフ,コツペリウス,ミラクルと何ら異なって描かれているわけではないということが明らかになる。彼らの音楽は非情さを,時にはまさに残虐さと暴力とを表現しており,そこには絶対的な支配への意志が感じられる。特に顕著なのは,第2番リンドルフのクプレにおける,モティーフのくどいほどの固執であるが,さらに第3幕でのホフマン,クレスペル,ミラクルの三重唱である。そのオスティナート〔反復(固執)低音〕は,上述の非情さと仮借のなさとを耳に強く印象づける。この関係においてもうひとつ忘れてならないのは,ライトモティーフ(示導動機)である。ホフマンの敵対者たちに,ライトモティーフはついて回るが、これはオペラ中で唯一のもので、注目すべきことである。ライトモティーフはオスティナートふうの反復,5度進行のゼクヴェンツ〔反復進行〕,終止形トリルから独特に組み立てられており,バロック風の定式的な外見をおびているばかりでなく,奇怪でグロテスクな印象をも与える。これらの人物にかならず伴うユニゾンでの演奏で,ライトモティーフは脅迫的になる。
   従って,音楽はホフマンの敵対者たちを,全く現実的な人物として示す。異常なまたはこの世ならぬものと感じられる神秘性を一切おびていない人物としてである。輪郭の弱さや抒情性に流れる傾向は鏡のアリアに非常に特徴的だが,これらはイメージに合わず,それ故オッフェンバックが意図したものではなかったことがわかる。しかし,ホフマンが小説で描写する悪魔的魔法的世界の一般的なイメージとは合わなかった。そこで,ダベルトゥットの鏡のアリアが導入されたのである。それはホフマンの敵対者たちを童話の人物にしてしまい,それによって無害化するのである。
   ≪ホフマン物語≫の受容は将来別の道を行くことが望まれる。しかしそのためには,オリジナル・テキストを意識するばかりでなく,このオペラの,特にその音楽の特別なスタイルをとりあげ、その内容に対応する必要がある。この音楽をもしグノーの≪フアウストFaust≫のように,またはそれこそヴェルディや19世紀の一般のオペラのように演奏しても,ぶち壊しなだけだ。この作品がオペラ・プフに類似しているという,初めに立てられた命題を肝に銘ずべきである。そうなれば,わが国(ドイツ)ではその独特さが今日まで常に見過ごされてきた、オペラ・ブフのジャンルにも利益になるであろう。そしてそのことは,ドイツのオッフェンバック像を修正することにも貢献するであろう。この修正は焦眉の急である。なぜなら≪ホフマン物語≫が,オペレッタ作曲家の<グランド・オペラ>ではないように,オッフェンバックも<軽い芸術の巨匠>ではないからである。オッフェンバックが,ヴェルディ,ワーグナーと並んで,19世紀におけるヨーロッパの音楽劇の第3番目の偉大な代表的人物であるということを、知覚し、認識することが肝要である。
 
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