教養演習(オペラとオペレッタ)
エッセイ(観劇のエチケット)
観劇のエチケット   ――半可通先生のオペラ・ゼミから――
 学生諸君。このごろは君たちも、たまにはオペラを見るようになった。注意事項はいろいろあるが、今日はまず座席のすわりかたから。たとえば横に一〇人分ならんだ席の、まんなかと端っこでは、立ち方すわり方がちがうから注意するように。端っこ、つまり通路そばの席のひとは、休憩になったら早く立ち、ゆっくりもどることだ。なぜかって? ばかもん。君はうっとりと余韻をたのしんですわっていたいかもしれないが、君より内側の、君にふさがれている人たちのなかには、早くトイレにいきたい人もいる、プログラムを買いに行きたい人もいる、とにかく君はサッと立って、用がなくとも外にでることだ。逆に休憩がおわるころには、こんどは内側の人たちがちゃんと席に着くまで待ってからすわる。予鈴がなるまではドアのあたりに立ってプログラムを読んでいてもいい。若いんだから。
 さて列のまんなかあたりの人は、こんどはゆっくり出て、早くもどるわけだ。休憩がおわってからあわててまんなかに戻るとどうなるか? 列の端からつぎつぎと立たせることになる。君は立つのもすわるのもなんでもないだろうが、観客にはご年配の人たちも多い。杖を突く、メガネをはずして遠目でプログラムを読んでいるかもしれない、膝の上にはオペラグラスを置いている、その膝の上でアンケートを書いているかもしれない、そこに君があわてて戻ってきてごらん、立ち上がると、どんがらがっちゃん。メガネは落ちる、ボールペンはころがる、その他なにが起こるかわからない。いいか、だからむやみに人を立たせないように、ゆっくり出て、早くもどるようにするというわけだ。
 つぎが、じつはもっとも大事なことだ。君たちは四階席か、せいぜい三階席にきまっておる――わしなどは、この歳でも四階席の常連だ。こういう席では、背中を椅子の背もたれにぴったり付けて舞台をみること。つまり前かがみにならないことが肝心だ。なぜかって? ばかもん。四階席ともなると、傾斜がきつい。ビルの屋上から道路をみおろしているようなものだ。前の列の者が身をのりだしただけで、その後ろの客たちには舞台がまったく見えなくなる。これを知らないと、たとえば最前列だからといって、のんびり手すりにアゴをのせるようなはた迷惑な者もでてくる。忘れもしない、先生は三〇年前、ウィーンのオーパーで身を乗りだしていたら、突然、首筋をうしろの婆さんに人差指でズンと突かれたことがある。あの衝撃はいまも首筋に残っている。よいか。背中をぴったり背もたれにつけて観る、これは小学校あたりでちゃんと指導してくれればいいんだが、そうではないらしいからこのゼミで指導しているわけだ。
 かりに万一――万一だ、諸君がアベックで来ている場合は、女性のトイレに気をつけることだ。自分が呑みたいからと、ビュフェでビールをのむばかりではだめだ。見ればわかるが、女子トイレはいつも行列だ。そもそもなんにも知らない男の建築家が設計するから、男子トイレも女子トイレも劇場に左右対称に配置したりする。ところがどうやら、女性の身づくろいというのはたいへんなものらしい。化粧をなおすとか、その他君たちにはうかがい知れない複雑な作業があり、それに没頭する女性が三人もいたら、あとは大渋滞になる。だから彼女の頭のすみにはつねに「いつトイレにゆこうか」という難問が渦巻いている、これを忘れないように。もちろん次の幕ぎりぎりに戻ってきても、怒ったりしてはいけない。そして利尿作用のある飲み物は――諸君はどうでも――、彼女には後半に勧めるか、できれば終演後にゆっくり飲んでもらう方がよいだろう。
まわりの人たちもふくめて、おたがいに気持ちよくオペラを鑑賞するために、ちょっとした心がけが大事だということだ。じゃ。
(早坂 七緒 ――または N/H. ・中央大学教授)
 
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