ムシルの小指を掴まえた!(プフォールマン『ムージル』)

オリヴァー・プフォールマンの『ローベルト・ムージル』(組版仕様変更版)が上梓された。
これはすごい本です。どうすごいのか、は以下にダイジェスト形式で説明します。

プフォールマン:『ローベルト・ムージル』
まずはムシルの処女作『陸軍生徒テルレスの混乱』について。(なおMusilの発音については、現在ムシルが正しいと分かっていますが、ドイツおよび日本のこれまでの慣行にしたがい、本書ではムージルになっています。)
1 törless ここには『テルレス』が学校小説ではない、と明確に書かれています。数年前のアジア中心のムージル・コロキウムでも、中国では『テルレス』を学校小説と捉えているらしいことが分かりました。日本でも大方の傾向はそうであるようです。松籟社(『ムージル選集』を刊行)の情報によると、『テルレス』についてだけは多数の読者カードが寄せられたそうです。その内容は不明ですが、やはり学校小説と捉えての感想であろうと推測します。「仮面の背後の哲学」まで読み取る読者は少なかったし、今も少ないようです。PDFには収録しなかったけれども、「少年を主人公にしたのはトリックだ」とムシルは書いている。「大人だと夾雑物が多すぎるから」。ところが幸か不幸かこの『テルレス』が当たってしまった。明らかに未熟な読者によって作者が持ち上げられてしまった。そこまで(おそらく)見抜けなかったムシルは、マイノング(グラーツ大教授)の申し出を断って、筆一本の作家生活を目指すようになった。

『合一』(Vereinigungen)について。
2 vereinigungen この世のものとも思われない(単なる個人的感想です――ブラタモリ式に。諸説あります――チコちゃん式に)難解複雑なテキストが、いかにして書かれたのか。エンジニアのムシルが短編を Laboratorium (実験室)にして呻吟した様子が解明されています。この方向をムシルは放棄しますが。

『熱狂家たち』について。
3 schwärmer ムシルにとって演劇もまた「ゼロ同然の状態からの創出」だった。元々の素材は「もやもやした精神的素材」である。しかも「自分が何を語り、誰を描くかは、どうでもよいこと」だった。「自分が到達できる最大限の精神生活しか付与するつもりはない」(次頁)。個々の科白は決まっていた。並べ方に苦労したらしい。1980年、ムシル生誕100周年記念にウィーンのアカデミー劇場で『熱狂家たち』の上演があった。(エーリカ・プルハールがレギーネを演じていた。)幕が下りて気がつくと、満員だった客席の三分の二は空席だった。

『三人の女』について。
4 drei frauen 『三人の女』には物語る喜びというものがあり、(…)この作家がこんなにわかりやすい小説を書くとは、と読者が驚くほどである、とプフォールマンは書く。「形象の次元と語りの次元とが渾然一体となっており、その完璧さにその後のムージルの作品が再び達することはなかった。」先行する頁でプフォールマンは、三つの短編のうち「非・擬ラチオと擬ラチオの対立と統合」の観点からすれば、「ポルトガルの女」のみが成功しており、他の二短編『グリージャ』と「トンカ」は失敗が描かれている、とする。異論はありうる。というか、Interpretation (解釈)してみたい、という誘惑に駆られる短編集である。なお『グリージャ』は1958年に「廃坑の女」というタイトルで邦訳されている(山下肇・種村季弘・訳)。英仏語圏以外ではおそらく最初の翻訳であろう。

『特性のない男』の終結部。
5 mobilisierung この未完の長編がどのように終わるはずだったのか、ヴァルター・ファンタが掘り起こした。第一次世界大戦の勃発があらゆるアンビヴァレンツからの開放として歓迎される。登場人物たちのあらゆる欲求は、「一種の終わり」というサブタイトルのもとで、セックスと狂気と暴力の集団的エクスタシーという結末を迎えるはずだった。(なお一部の章はすでに新潮社版『特性のない男』第6巻(浜田正秀・訳、1966年)に訳出されている。)

時代に追い越された『特性のない男』
6 überholt von der Zeit ムシルが書き進めているあいだに、というか、さまざまに枝分かれするヴァリアントをそれぞれ展開しているあいだに、時代はまたしても「大戦勃発」になってしまった。現代小説のつもりが歴史小説になりかけていた。
妻マルタはユダヤ系なのでナチス政権下では生命の危険があった。スイスのチューリヒに、次いでジュネーヴに移住した。ヘンリー・H・チャーチ夫妻(資産百億円のアメリカ人)の支援金などを頼りに、不自由な亡命生活のなかで書き続ける。
「すでに燃えている家のなかの額縁にひそんで、せっせと喰い進む虫の熱意のようなものです。」(次頁)

『特性のない男』遺稿はハイパーリンク・システムだった。
7 hyperlink ウィンドーズ95が早坂研究室に入ったのは、1996年頃だった。ムシルにとっては百年遅かった。まさに彼の言うように「同時代人が百年遅れている」のだ。
参照記号が10万箇所に上るとは。たとえPCがムシルの手元にあったとしても、参照記号の管理だけで「ファイル」が幾つも必要だったろう。
「真正ということの悲劇」と生野幸吉が、ムシルの生涯を言い当てた。「今時の文学とは別の概念を打ち立てるために、文字通り命を賭けている」ムシルの仕事は、妥協不能のまま、収束不能の域に達して中絶している。精神のために、ここまでマジメに生きることができるのが、小生には驚異だ。(昭和の仙台市の中高等教育は、疑似福祉社会である大企業、公務員に就職させるための受験装置だった。国と地域、家庭の貧しさが背景にある。)真正を貫いたまま、精神に殉じることができたとすれば、ムシルは幸せだったのかもしれない。われわれが見ているのは、20世紀のドイツ語圏作家(Dichter) の極北である。