🎹京都府のTさんが試弾しました(3)『革命』

前回(試弾の2)の続きです。Tさんはパラフィン浴のあと、無茶ぶりのプレリュード24番、そのあとは spontaneous に「英雄」ポロネーズ、そしてエチュード「革命」を弾きました。

Tさんのコメントから。
手の小さい人には、この曲の速い左手のパッセージを弾くのが大変ですが、細幅鍵盤なら、楽に簡単に弾けます。/ 手の大きい人は、こうして楽に弾いているのです。/ 手の大きさが違うのにコンクールや試験で同じ大きなピアノで弾かされ、評価されるのは、明らかにおかしいです。(以上)
初めて試弾する7/8サイズ・キーボードに、これほどあっさり順応するTさんの能力には驚嘆します。――そう考えるボクが間違っているのでしょう。手のサイズに合っていない標準鍵盤を日常的に弾いている、大半のピアニスト、ないしピアノ練習生の理不尽な努力こそ、驚嘆すべき不条理なのです。
 以下は脱線です。「革命」については、いろいろ思い出があります。ちょうど50年前、26才のときにドイツのゲーテ・インスティトゥートで夏期講習を受けたことがあります。開業医の叔父が姉(つまりボクの母)に恫喝されて、ボクに奨学金100万円を提供した。そのお金で、ミュンヘン近郊の Goethe-Institut に短期留学した次第。クラスメートは、メキシコ人、スペイン人、アメリカ人、フランス人、ユーゴスラヴィア人(当時)、イタリア人、など色とりどり。授業では、教師が話題を振ると、口々に知っていること、知らないことも、みなマシンガンのようにしゃべり出す。先生に指名されるのを待っているような、日本式受講生は、授業中にひとことも発言できない。
ある日ボクは、事務室に行って「ピアノを弾かせてもらえないでしょうか」と相談した。施設の離れのホールに、アップライト・ピアノが一台あったからだ。
さすがはドイツ!! 事務のおばさんは「異国に来てピアノが弾けないのでは、さぞお寂しいでしょう。夕方にホールの鍵を貸しますから、弾き終わったら、事務室のドアの下のすき間から鍵を戻しておいてください」と対応してくれた。
ローカル電車でミュンヘンに行って、ショパンの楽譜を2,3冊購入した。主にマヅルカ、スケルツォなどを弾いていた。ある日、ピアノのそばに立って聞いていた、フィンランド人のハルメスマー(瞳が薄い水色の、身長180㎝ぐらいの大女)が、「Umsturz!」と指令した。ボクは即座に「革命」を弾いた(当時は暗譜していたらしい)。その頃はすでに手抜きを覚えていて、左手の高音部を右手で代用していた。

(Tさんは、まじめに左手だけで弾いています。)
一ヶ月の講習期間も終るころ、教師は授業で「 Kurze Finger さんの独作文はすばらしいです。みなさん、彼のピアノを聴きましたか?」と言った。するとクラスメートのほとんどが、ウンウンと頷いた。知らないうちにホールの窓の外から、聞いていたらしい。(この教師は、ときどき落ち込んでいる生徒を励ましていた。)
「革命」といえば、手塚治虫の「虹のプレリュード」を外すわけにはいかない。ショパンは1930年11月29日のワルシャワ蜂起の、ほんの27日前に、ウィーンに向けて旅立った。仮にショパンの出発があと一ヶ月遅かったら、そしてショパンが蜂起に身を投じていたら、われわれは彼の作品のほとんどを喪失していたことになる。
ワルシャワ陥落の報をショパンは、ウィーンからパリに向う途中のシュトゥットガルトで知る。

(c) 手塚プロダクション
左の頁の和音は、「革命」の冒頭の音。蜂起の象徴だろう。次のコマはロシアの銃剣。その2つ下はポーランドの銃剣。最後のコマではロシアの銃剣が蜂起を圧倒している。
一般的に、シューマンはショパンを「花の陰の大砲」、ないし「花束の中に隠された大砲」(岩波ジュニア新書 )と評したと伝えられる。原語は “Chopins Werke sind unter Blumen eingesenkte Kanonen.” 堅苦しく直訳すると「ショパンの諸作品は、花々の下に( or 最中に)降下された、大砲の数々である」。微妙なのは ein/senken で、基本的には「沈める、降ろす、埋める」だ。連想するイメージとしては、欧州の墓場で、棺を2本のロープでゆっくりと墓穴に降ろす場面。埋葬された、わけではないだろう。かといって、花々に埋もれた、という形で単に装飾されたわけでもない。花々の下に、ひとまず格納されて沈黙しているが、時が至れば、地表に復帰して火を吐く大砲、という意味ではないだろうか。
手塚治虫の「虹のプレリュード」の次のページ。

(c) 手塚プロダクション
よく見ると、この楽譜は手書きだ。執筆の1975年当時、すでにコピー機はある程度普及していたので、楽譜のコピーを使えば、手塚はショパンの両手を描くだけで済ますことができたはず。それをせずに、ショパンがリアルタイムで作曲していたように、手書きしたと推測される。通常なら、アシスタントが作画したと考えられるが。音楽の素養がないアシスタントでは、このように楽譜を筆写できないだろう。ひょっとすると、手塚自身が描いたのかも。(彼が軍隊ポロネーズ(?ウロ覚え)を弾く場面をテレビで見た記憶がある)

(c)手塚プロダクション(背景の楽譜はプレリュード8番 Op. 28-8*。手書きではない。)
(*京都府のTさんのご教示による。)
のちにパリで名声が確立したころ、ニコライ一世から「宮廷の首席ピアニストにならないか」と打診があった。ショパンは「わたしの心は、蜂起した同胞とともにあります。」と答えた。

 

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