マズルカ41番を細幅鍵盤 6.0 で弾いてみた

ムラムラッとショパンが弾きたくなった。ピアノ再生工場Piapit(ピアピット)から帰ってきたブラザー GU-131が、よく鳴り、よく歌うようになったからだ。まっとうなピアノなら、ショパンが弾ける! マズルカ41番(Op. 63-3) は、ショパン存命中に出版された最後の「3つのマズルカ」の3番目、最終曲である。1846年に作曲されたが、これはショパンがジョルジュ・サンドとノアンで過ごした最後の年にあたる。なんだか「最後」の付きまとう曲。

いつものように『弟子から見たショパン』と『ショパン全書簡集』の作品索引からデータを得ようとした。だが具体的言及はほぼ皆無だった。
とはいえ。『書簡集』にラウラ・チョスノフスカ伯爵夫人が1846年6月末から7月19日まで、ノアンのサンドの館に滞在したことが記してある。(パリ時代(下)532ff.)
ラウラは、まことに数奇な運命をたどった女性で、実際に1990年代に彼女の映画が製作されたほどである。最初の夫が拳銃自殺したあと寡婦となってからは、ワルシャワでショパンの姉ルドヴィカ、妹イザベラの嫁ぎ先によく出入りしていた。


ラウラの肖像。画家はクヴィアトコフスキ。(SCRIBO. dr Jacek Saramonowicz.)
ラウラがノアンに滞在した時の様子が『書簡集』の注にある。


ラウラは1814年生れで、ショパンより4歳若い。ということは、サンドより10歳若いのだ!!
このラウラとともに、ワルシャワの姉妹の情報、さらにポーランドが、ノアンのショパンを襲ったのかも知れない。10日ないし二週間の滞在のあいだ、ショパンはこの「音楽の夕べ」に限らずあれこれの曲を即興で弾いていたと推測される。その中にこのマズルカ41番の萌芽もあったかもしれない。推測だらけで話にもならないが。
翌年、サンドとショパンの関係は破綻する。サンドの連子のモーリスとソランジュ、彫刻家クレサンジュがどうのこうの、とか複雑でよく分からないけれども。ラウラのノアン滞在も、何らかの要因となったのでは、と思いたい。

 

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