東アジアのムシル(共著、ドイツ語)が刊行されました

ほとんど無謀とも言える本が刊行された。韓国の文献はハングルとドイツ語訳、中国の文献は簡体字とドイツ語訳、そして日本の文献は日本語とドイツ語訳を並べて提示する、という、これまで夢想もされなかったムシル研究書である。

本書は基本的に、2021年10月30日、31日にズームを用いて開催されたコロキウム”Robert Musil — transkulturelle Lektüren. Internationales Kolloquium zur Musil-Rezeption im asiatisch-pazifischen Raum” の報告書だ。韓国、中国、日本のムシル研究者に加えて、ドイツ、オーストリアほかの国々の研究者も参加した。(こんなことが出来るようになったのは、コロナのお蔭だ。)
直接のきっかけは『特性のない男』(第一巻)がShin Jiyoungによって韓国語に訳されたこと。中国では『テルレス』がやっと中国語に訳出された。少なくともムシル研究に関しては、韓国は60年前の日本のレベルにあるらしい。そして中国は、その韓国のレベルにも、まだ達していないらしい。今回やっと気付いたのだが、およそ中近東からインド、中国、極東にかけて、日本ほどヨーロッパの文学・芸術をフォローしている国はないと思われる。そのことを日本人が知らないのである(どこの国でもこのレベルが当り前だろうと思っている)。
話は飛ぶようであるが(林真理子式に)、コロナ禍による死者を人口比で見れば、欧米に較べて日本はきわめて優秀である。これは医療従事者の献身的努力、個々の窓口の公務員ほかの、たいへんな尽力のお蔭である。これを日本人は顕彰していない(知る限り)。大いに自慢してよいことだと思うのだが。慢性的に卑下していて、たまに外国人に褒められるのを待っている、という過度な謙虚さから、そろそろ脱却してもよいのではないだろうか。

見開き。Musil-Studien の48巻目となる。

奥付(Impressum)。科研費の補助を受けた旨、日本語で表記してある。

目次。全体は二部に分かれていて、前半は「受容」(Rezeption)、後半は「作品解釈」。「受容」の1と3に早坂と宮下みなみ氏の論文が掲載されている。「作品解釈」の1に赤司 英一郎 氏の『三人の女』論が置かれている。(コロキウムに参加した日本人は三人。)

早坂の「日本におけるムシル受容」の冒頭ページ。これは早坂の功績ではまったくなくて、これまで日本のゲルマニストが、いかにムシルをフォローしてきたか、その充実した内容による。たとえば1932年にH. リュッツェラーがボン大学の夏期講座で『特性のない男』を取り上げて「こんなに面白い小説はない」と賞揚した事実は、ドイツ人でも知らないだろう。オーストリアの B.クライスキー首相が『特性のない男』を枕頭の書にしていたことも、Herausgeber のTh. Pekar 氏や M. Kraus 氏には初耳だったようだ。さらに。
I. バッハマンがムシルにオマージュを捧げていた、それを中野孝次が1960年代に訳出しつつ、『特性のない男』を読書新聞に紹介していたのだが、Herausgeber にはこのオマージュが初耳だった。などなど。
なお宮下みなみ氏は、古井由吉がムシルを受容しつつ創作した過程を検証している。赤司 英一郎氏はメールヒェン論を活用しつつNovellen を解釈しており、出色の出来であると思われる。
とはいえ。本書によって奇妙な状況がおぼろげに明らかになってきた。序言にあるように Pekar 氏はムシルの Utopie der Höflichkeit (礼儀正しさのユートピア)を、『特性のない男』の次の展開のキーワードと考えているらしい。MoEはハプスブルク終焉の書ではなく、打開の試み、希望の書である(べきだ)というスタンスからは、ムシルが書き留めた「老子との対決」、「礼儀正しさのユートピア」の方向を探求すべきである、という考え方は一理あると思う。
だが『老子』はヨーロッパ式に書かれている訳ではない。どこから手を付けたらよいか当惑する。それでも、欧米人が東アジアに打開策を求める傾向は、昔から珍しくない。
G. ノイマンはこう語った「ムシルは、空間感覚と主観容認の境界を解消し、風景を和合の空間とするモデルを創出した点において、ドイツの作家のなかでもっとも日本的な詩人と言えよう」と。(”Landschaft im Fenster”)その意味するところは(全文を読んだけれども)よく分からなかった。だからといって、これらが見当違いの憧れにすぎない、とは言えないようである。
ストラヴィンスキーは1913年に「三つの日本の叙情詩」を作曲した。山部赤人、源當純、紀貫之の短歌に基づいて(三枝成彰:大作曲家たちの履歴書・下)。欧米のジャポニズムは半端ではなくて、たとえば浮世絵の草書のテキストなどは読みこなしており、根付の職人の個性なども把握している。一般的な日本人はそのようなレベルに達していない。
日本に、あるいは東アジアに求められているものを、われわれは提供できるのだろうか。
「落とした財布が戻ってくる」という日本は、現在すでに「礼儀正しさのユートピア」になっているのではないだろうか。ムシルの図式「生命の二本の樹」つまり愛と力の樹によれば、「力と悪」の原理に従えば拾った財布は自分のものにするのが順当である。
どうやら、「生命の二本の樹」とは異なる、まったく別なシステムがここにあるのかもしれない。