「ローマのマルタ・ムシル(旧姓マルコヴァルディ)」(ドイツ語)をアップ。

Martha Marcovaldi, spätere Martha Musil, in Rom” を中央大学「ドイツ文化」79号に発表しました。(刊行は2024年3月15日だったけれども、学術リポジトリに出たのは7月末だった。)
拙論へのリンクは、この投稿の末尾に貼付けます。その前に各章の概要を紹介します。

1)マルタ。素材とモティーフの豊穣の角。
もしムシルが1906年に保養地グラールでマルタ・マルコヴァルディ(のちのムシル夫人)に会わなかったら、ムシルの作品はどうなっていただろう? と、レギーナ・シャウニック(クラーゲンフルト)は詳述している。会う前の手持ちの素材といえば、アリース・シャルルモンのクラリセ、グスタフ・ドーナトのヴァルター、トンカのモデルのヘルマ・ディーツにからむ嫉妬のテーマぐらい。

それが、マルタとともに一気に、ヴェローニカ、クラウディーネ、アガーテ、そしてア・モラルを含むモラルの広範囲のスペクトルが、ムシルの作品世界に持ちこまれた。

2)ジャコモ・バッラとカーサ・バッラ
マルタの最初の夫、フリッツ・アレクサンダー(画家)が急死したあと、マルタは著名な画家について絵画を習う。
ローマの16区、Ludwigiviertel に住居とアトリエのあった、ジャコモ・バッラに師事した。バッラといえば「未来派」の絵画として「鎖につながれた犬のダイナミズム」が有名だ。

でも、それ以前の印象派の延長のような婦人像の方が、ボクには好ましい。たしかに筆捌きは美事でセンスもいい。画家としては、さまざまなIsmが交錯する20世紀初頭に、試行錯誤しないわけに行かなかったのだろう。イタリア銀行(Banca d’Italia)がバッラ館(Casa Balla)を公開する予定だと聞いている。(Youtubeを見ると、すでに公開されている。)

Balla はマルタの肖像を2枚描いたという。2枚とも現在は所在不明。

3)ローマ16区、ルドヴィジフィアテル。
ムシル夫妻は1910年~13年に頻繁にローマに滞在した。マルタが当時の夫エンリーコ・マルコヴァルディと離婚するためであり、ムシルと結婚したあとも、長期滞在した。二人が好んだのが、この16区、Via Vittorio Veneto 周辺である。「ペンション・ニンマーメーア」のモデルと覚しきホテル、その他名前の分かっている宿泊地のほとんどが、この16区(および周辺)にある。中心を通るのがヴェネト通り。南端にアメリカ大使館があり、高級ホテル、レストランが並ぶセレブな繁華街だ。1960年にここでフェリーニの『甘い生活』が撮影されており、通りにはその記念銘板もある。第一次世界大戦前のマルタは、ベルリンのユダヤ系銀行家の娘として潤沢な資金をもっていた。セレブたちに交じって伸び伸びと暮らすこともできたろう。

4)エンリーコ・マルコヴァルディ
マルタはこのヴェネト通りのホテルのパーティーで、エンリーコ・マルコヴァルディと知り合ったと推測される。二人の閒にはガエターノ・マルコヴァルディとアンニーナが生まれている。

5)ペンション・ニンマーメーア
1913年ごろ、ムシルはきわめて生産的だった。ここで気がつくのは、ムシルがヴァチカンとかフォロ・ロマーノなどの「名所」についてほとんど何も書いていないことだ。おそらくここでもまたムシルは、従兄のアロイス・ムシルと同様に、「踏みならされていない」小径を渉猟したのだろう。

6)カフェ・ファラギア
これもまた奇異なことだが(というか、ムシル研究者にはおなじみだが)、ムシルはホテル、レストラン、カフェなどの固有名詞をほとんど『日記』に書き記していない。例外的にカフェ・ファラギアだけは記録されている。コリーノの推測によると、1910年から12年にかけてムシルがほとんど作品を書いていないのは、マルコヴァルディに対する嫉妬から執筆障害に陥っていたからではないか、というのである。「言語道断。おまえが身重の身体で通りを歩いていたとは。まるで〈私はこの人と性交しました〉と書いた看板をぶら下げたようにして。」

7)ルイージ・セテムブリーニ通り13番
エンリーコ・マルコヴァルディには、少なくとも三人の姉妹がいた。結婚して裕福になったヴィットーリアが、この家の所有者。同じく結婚して裕福になったエルメリンダ(ディオーティマの本名はヘルミーネ。トゥッツィは時に彼女をエルメリンダと呼んだ)も住居をもっていた。末の妹ジュゼッピーナは、この間ギムナージウムの古典語の教授になっていたガエターノ・マルコヴァルディの住居にいた。マルタは1947年にアメリカから息子のところに戻って来た。ムシルの死後フィラデルフィアのアンニーナ・ローゼンタールの許に身を寄せたのだが、孫娘のイレーネと折り合いが悪く、ヨーロッパに戻ったのだ。ここでマルタは1949年に亡くなる。

8)1947年9月25日付の W. A. ベレントゾーン宛のマルタの手紙
K. コリーノの提供による。これまで未公開だったマルタの手紙がここで公開された(ハンブルク大教授だったベレントゾーンは1933年に北欧に亡命。のちにドイツ亡命文学研究の創設者となる。2001年にハンブルクの研究所は「 W. A. ベレントゾーンドイツ亡命文学研究所」と改称された)。内容は、ムシルの亡命後の作品について。さらに「1938年にムシルはナチスから誘惑的な提案を受けました。でももちろん彼は政権の敵だったので亡命しました。その報復として『特性のない男』は発禁となり押収されました。」

9)カール・コリーノの『ムージル 伝記』の補遺。グライゼ・フォン・ホルステナウ将軍について

Edmond Graise-Horstenau (1882-1942、Wikimediaより)
上記のマルタの手紙を提供するとともに、カール・コリーノは彼の『ムージル 伝記』の補遺を参照するように指示してきた。これは日本語版の『伝記』にのみ加筆されたもので、原書(2003年)よりも日本語版が充実していることを意味している。(日本語版1728f. 原書1292)

アードルフ・フリゼーが一九五五年にウィーンで調査したときに聞いた話によると、当時「教養のある将軍」エトムント・グライゼ・フォン・ホルステナウがムージルに、ウィーンに留まるように勧めたとのことである。あなたのような人たちが必要とされるのです、あなたには支援の手を差し伸べるつもりです、と諭したもようである。グライゼ・フォン・ホルステナウ〔Edmund Glaise von Horstenau 1882-1946〕は、ムージルとおなじくメーリッシュ・ヴァイスキルヒェン陸軍上級実科学校の卒業生。一九一五年から一九一八年まで帝=王室総司令部の報道ならびに政治部に所属し、一九二五年から一九三八年までオーストリア軍事文書館長、一九三四年からオーストリア等族国家の枢密顧問官をつとめ、一九三六年七月からシュシュニク政権で無任所大臣となり、野党のドイツ国家主義的グループへの対応を任された。一九三八年三月一一日の、ナチ党員ザイス=インクヴァルトの暫定政権では、オーストリア副首相の地位についた(その肩書でオーバーザルツベルクのヒトラーの山荘にいた!)が、その地位にいたのは二日間にすぎなかった。ただし、オーストリアのドイツ帝国への併合後は、オーストリア州政府の一員にとどまり、大ドイツ帝国議会議員にしてナチ突撃隊名誉章所持者であり、ドイツ国防軍の領邦司令官であった。併合後、彼はしだいに政治の主流から外れ、ゲーリングから「サンタクロース」と呼ばれたが、一九三八年にはまだ人びとに一定の庇護をあたえる力を保持していた。スイスにいるムージルに接触してきた「指導的地位の人たち」のなかに、グライゼ・フォン・ホルステナウがいたかどうかは不明である。(以上)
なおホルステナウはニュルンベルク裁判の途中で自殺している。

10)ヴェラーノ墓地
テルミニ駅の東に広大な墓地が広がっている。マルタはそこに、マルコヴァルディの寡婦として(!離婚したのに)埋葬された。墓の位置は、墓地の検索システムによっても特定できなかった。すでに80年経過しているので、痕跡はないと思われる。

Martha Marcovaldi, spätere Martha Musil, in Rom