嵐山光三郎の芭蕉講座

講演中の嵐山光三郎氏

国立市在住の嵐山光三郎の芭蕉講座を聴きました。場所は明窓浄机館。
会費2000円を支払うと、すでに机の上に署名入りの『芭蕉という修羅』(新潮社)が置いてありました。今回は第2回で、先月の第1回では『影の日本史にせまる』(磯田道史と共著、平凡社)が置いてあって、両著者の署名(コピー)が添付してありました。ボクは持参した『悪党芭蕉』(新潮文庫)に終了後サインをもらいました。西行から宗因、芭蕉ほか、詳しいこと詳しいこと。90分では話しきれないから、もう談論風発という感じ。かつてニューヨークで句会をしたときの句、「ハドソンに女神飛びこむ水の音」なんて、たぶんここでしか聞けなかったろう。明窓浄机館の館長サトウ氏が嵐山光三郎と小学校同級だったというご縁。そして国立・中商店街の方々など約30名が聴衆。目からウロコだらけ。一部のみ記すと。
*閑かさや岩にしみ入る蝉の声
諸説あるけれども、ここでは芭蕉が少年の頃お伽衆として相手をした蝉吟(せんぎん)を思うべきだろうとのこと。蝉吟とは藤堂良忠(よしただ)の俳号。吟の字は北村季吟からもらい、蝉の字は生来病弱のため短命の蝉の字をとったという。良忠は伊賀上野の侍大将五千石の藤堂新七郎の二代目良精(よしきよ)の嫡子三男。伊賀の藤堂家は服部半蔵の系列にある。(詳しくは『修羅』21頁以下参照のこと。)金作(芭蕉の幼名)少年は、俳号を宗房とし(藤堂良精の俳号は宗德、良忠は宗正、金作が宗房であった。松尾金作が、理由は不詳だが、藤堂家と異常に近い関係にあったことがわかる)、若殿蝉吟の句の添削を依頼するため、京に届けたという。季吟はついでに宗房の句の添削もしてやった。季吟は古典の簡訳本(学習参考書)を多く出しており、芭蕉は寺子屋レベルの教養を基礎に、徐々に古典の知識を高めていったという。芭蕉の名も謡曲に由来する。蝉吟は25歳で没した。2歳下の芭蕉は23歳だった。二人は衆道のカップルでもあった。西行の時代も同じで、衆道はむしろ美徳であったという。(保元、平治の乱など天皇、上皇の骨肉の闘いのなかで、戦場で相まみえる相手が「恋人」であれば、切っ先も鈍ろうというもの。)蝉吟とは蝉が声に出してうたうこと。

恵贈されたニ冊の著書、署名いり。

*山吹や蛙飛こむ水の音  (其角)
支考によれば、芭蕉がまず下の七五を得た。横にいた其角が「山吹や」にいたしましょうか、と言ったとか。これは何度か読んで知っていた。ところが背景があった。其角が山吹を出したのは、『古今集』の「かはず」の歌からの連想だという。
かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを (読人しらず)
この歌によって「井手の玉川」は歌枕となり、和歌で蛙といえば山吹がつきものとなった、という。其角はテキトーに山吹を出したわけではなかった。
たとえば延宝三年、宗因の東下に際して本所大徳院で興行された俳諧百韻。発句も脇も、源氏物語(若紫)や玉葉集を踏まえての句であり、即座に連衆がそれを見破る。いやはや当時の連衆の教養たるや、ものすごいものがある。(『修羅』50頁以下参照)とはいえ芭蕉も宗因も、英文和訳や独文和訳はできなかったろう。教養は時代とともに推移する。
*芭蕉深川転居の原因
連句年鑑(平成30年版)には、芭蕉の猶子・桃印と妾・貞(のち寿貞)との不義密通を穏便に済ますため、との説があった。嵐山説は、4代将軍家綱が死に、5代将軍に綱吉が就いたためである。つまり4代家綱(左様せい将軍)には老中酒井忠清が付いており、実質的に国政をいいように牛耳っていた。この忠清の女婿が藤堂高久(高虎の孫)で、藤堂家の江戸詰首領であった。影の将軍忠久の義理の息子、高久も絶大な権力をもっていたわけだ。お蔭で芭蕉は日本橋という、高級公務員住宅と幕府御用達の店舗(杉風は川魚を商っていた)のある一等地に住み、富裕な弟子をもち、宗匠として名が売れ始めた。ところがそこで将軍家綱が死んだ。綱吉は身長124㎝という異常な小男だったが、家綱で地に落ちた将軍の権威を復活させようと苛酷な手を打った。老中酒井忠清は失脚、病死。綱吉は藤堂高久に命じてその忠清の墓を暴き、死骸を踏みつけよと言った。のみならず忠清の弟忠能は所領を没収され、忠清の二人の息子は閉門蟄居とされた。粛清の嵐がいつ芭蕉に及ぶか、戦々恐々とした周辺の人たちが知恵をしぼり、芭蕉は剃髪して出家をよそおい、深川の長屋に転居して、ひとまず姿をくらました、という。
*二十番勝負『蛙合』(かわずあわせ)で一発大逆転
貞享三年、深川転居から6年後に、蕉門による『蛙合』が興行された。古池や・・・を第一番の左に置き、以下蕉門の蛙の句四十を左右に配した衆議判である。綱吉の「生類憐れみの令」は常軌を逸しており、腕に止まった蚊を打ったことをチクられて島流しになった者もいたという。鳥肉、えび、貝を食べてはいけない。もちろん犬、猫、雀を殺してもいけない。こういうときに、ふだん注目されることもなかった「蛙」をテーマに四十句、二十番勝負をやったものだから、大評判となり、芭蕉は宗匠として復帰することができた。などなど。

サインを書く嵐山氏と2ショット

流れ星 また新しき 星生まる  光三郎