弾いてはいけない!
お父さん、お母さん、ごめんなさい。こんな身体(からだ)になってしまいました。身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり、というのに。両手の親指の腱鞘炎だけでなく、肘も、肩の筋も痛い。いちおう男子なので、エストロゲンの減少によるものではない。やはり無理に手を拡げてピアノを弾いたのが原因であろうと考えます。
Dr.酒井のリハビリ・ステーションで週に2度ほど、パラフィン浴の治療を受ける。55°Cのパラフィン液に腕を浸してから、引き上げて周囲にパラフィン液が固まってから10分間、じーっと坐って温熱が腱鞘に伝わるのを待つ。毎回この10分のあいだに、2~3人の女性がパラフィン浴に来ている。中年の婦人もいるが、それよりも20歳前後の女性が多い。ほぼすべて、小柄なkurze finger よりもさらに小柄である。まだ数週間通っただけなのに、10人程度は目撃している。丸一日、一週間ではどれほどの患者がパラフィン浴に来ているだろうか?
今日はめずらしく(理学療法士さんが気を利かせたのか)、となりに中年の婦人が座った。やはりパラフィン液を両手に付着させて坐っている。自由になるのは口だけなので話しかけたら、いろいろなことが分かった。ピアニストではないが、毎朝2時間はピアノの練習をしているという。かつては発表会でショパンの舟歌(op. 60)を弾いたこともあるとか。昨年暮れの発表会の直前にバネ指になったので、とある整形外科でステロイド注射を受けて凌いだ。けれども再発したのでDr.酒井のパラフィン浴を受け、数ヶ月で治ったという。「大丈夫、治りますよ!」と励ましてくれた、のはいいとして、今またこうしてパラフィン浴を受けているのは? 「指を使う仕事をしているので」というご説明だった。私は、細幅鍵盤ピアノが浜松の工場で修理・調整してもらっているあいだに、バネ指になってしまった話をした。「細幅鍵盤ピアノが戻ってきたら、弾きに来てください」。「で、そんなピアノで弾いてどうなりますの?」「バネ指にならなくなります」「えーっ! そんな…」という反応。
あきらかにそのご婦人は、ご自分のバネ指ないし腱鞘炎が、サイズの合わないピアノを弾くことから引き起こされている(可能性がある)こと、自分のサイズに合ったピアノを弾けば障害を回避する可能性があることを、知らない、あるいは知らされていない。この事こそ問題ではないでしょうか。
すべての国民は、「健康で文化的な」生活を送る権利がある。これは日本国憲法で保証されています。上記のご婦人は、何度もパラフィン浴の治療を受け(お金もかかります)、好きな音楽作品を演奏することもできない。せっかく音大を卒業して(その教育にも、国費が費やされています)、音楽・芸術を楽しむ充実した生活を送ろうという国民が、障害を負い、逆境に置かれているのです。多発する腱鞘炎を防ぐ方策は、すでに明らかではないでしょうか(各人のスパンに合った楽器の製作、供給です)。かりに整形外科の医師たちが事実を認識しながら沈黙しているのであれば、これは(米国でオバマが導入し、トランプが潰そうとした)国民皆保険という日本の制度(今でも危ない)に安易に寄りかかるような態度ではないでしょうか。回避できる疾病については、対策を訴えるのが医師の仕事ではないでしょうか。それにより、保険の支出は低減されます。