ヨーゼフ・ホフマンとスタインウェイの謎(3)
しばらく本業に時間を取られて、投稿できずにいました。訪問者の方々には感謝します。
グレゴール・B氏のいくつかのメールから紹介してゆきます。
「ホフマンは50年以上にわたり、スタインウェイ社の経営陣のトップと、そして家族のメンバーと親友でした。のみならず、スタインウェイの美しい音色を宣伝する、至高の宝と見なされていました。彼は甘やかされ、好き放題にやってよかった、それは今日想像できないほどです(おおよそ1905年から1945年にかけて)。ホフマンはアマチュア発明家でもあって、ピアノ改造の実験にも取り組んでいました。彼のアイデアはスタインウェイの工場のエンジニアや技師によって組み立てられ、テストされました。これはホフマンの自宅、スイスや南カリフォルニアやフィラデルフィアの自宅の私的な工房でも、彼のアシスタントによって同様に試されました。
膨大な数の往復書簡、青写真、図面などが残っています、これはホフマンとスタインウェイの様々なスタッフとのあいだで交わされたもの。一時期、ホフマンのアイデアを専門に担当するスタッフがいたほどです。4台のコンサート・グランドがホフマン専用に充てられており、演奏会のある都市から都市へ搬送されました。すべてホフマンの改造を反映して絶えずアップデートされていました。」
――いやはや。ここまで来ると、ピアニスト冥利に尽きるのでは。フランツ・リストでも、たとえばベーゼンドルファーからここまで厚遇されてはいなかったと思われます。
傍証というべきか、スタインウェイがホワイトハウスに寄贈した「黄金の鷲のスタインウェイ」の記事を偶然見つけました。そのお弾き初めはホフマンがやりました。
代々ホワイトハウスには、ゴージャスなピアノが寄贈されているようです。記事全文はこちら:黄金の鷲のスタインウェイ
さてグレゴール・B氏のメールに戻ります。
「1930年代には、ホフマンのピアノには40以上の様々な改良が施されていました。あの、あまりにも有名な細幅鍵盤は1920年代後半までなかった。ホフマンは成人として1895年から演奏活動をしていたから、コンサートの半分以上は標準鍵盤ピアノで弾いていたことになります。
1930年代後半にホフマンは「より軽い」別種のアクションを構想し、それは彼のピアノに組込まれました。これはその後スタインウェイが開発した「高速アクション」(The accelerated Action) とは違うものです。第二次世界大戦後、スタインウェイはホフマンのアクションを搭載したピアノを破壊しました。」
――つまり、ホフマンのピアノが destroy されたのは、細幅鍵盤のためではなく、「より軽い」アクションのためだった。グレゴール・B氏は続ける:
「私の知る限り、このアクションを内蔵した1~2台の小型グランドピアノを、ホフマン固有の資産として、何人かの孫が受け継いでいます。」