プッチーニ 『三部作』

*腹の出た中年バリトンの晴れ舞台(ジャンニ・スキッキ)
なんとも痛快な中年男の悪知恵。これまでオペラでお目にかかった腹の出たバリトンは、ファルスタッフ(「ウィンザーの陽気な女房たち」)とかオックス(「薔薇の騎士」)とか、その好色ないし貪欲をさんざんコケにされる役か、スカルピア(「トスカ」)やヤーゴ(「オテロ」)のように、最後まで憎ったらしい悪役だった。上江隼人(9月8日)はバリトン冥利に尽きたのでは。大富豪ブオーゾ・ドナーティの親類縁者のいがみ合い、導入されたジャンニ・スキッキとの交渉も決裂しかけたとき、娘のラウレッタが「お願い、お父さま」と歌う。若い二人のために一肌脱いで、あぶない橋を渡ってやろうじゃないか、と腹をくくるジャンニ・スキッキ。この転回点はそれまでの「外套」、「修道女アンジェリカ」の閉塞感を一気に吹き飛ばす。台本のフォルツァーノはすごい才能の持主と思われる。(なお O mio babbino caro は石戸谷結子氏が二期会HPで〈ねえ、お父様お願い!〉としているタイトルが正しい。従来は〈私のお父様〉だった。これでは何のことか分からない。ボクは50年前にバレエのレッスンの最後の Port de bras でいつもこの曲を弾いていた、訳も分からずに。)とにかく歌手の皆さんが乗って、踊っていたし、それが客席に伝染していた。
*ブオーゾ・ドナーティの死体の役お疲れ様でした。思いっきりぞんざいに扱われていた。通夜はかならず複数の人間が勤めることになっているそうで、なぜなら「らくだの馬さん」にかんかんのうを踊らせるように、死体に狼藉をはたらく、はたらきたい、という気持ちが生者に起きるからだそうだ。死体となったドナーティと、らくだの馬さんは、思えば紙一重だ。遺産をすべて修道院に寄付する、としたドナーティは、遺族から見れば無一文のらくだの馬と変わりない。むしろ莫大な遺産をよそに与えるだけ、さらに憎たらしい。死体の扱いのぞんざいさが、この一件の重大さを物語る。死体役は大役だ。
*「外套」はグラン・ギニョールもどき
すでに鑑賞から一ヶ月以上経っているので、やや曖昧な記憶で書きます。プッチーニの三部作は基本的に三幅対(Triptychon)のイメージで構想されたらしい。つまりボッシュの祭壇画でいうと、左が地獄、右が天国、真ん中が現世。それにしたがえば、地獄が「外套」、天国が「アンジェリカ」、現世が「スキッキ」のはず。ところが「外套」は地獄になっていない、というかなりきれていない。プッチーニはパリで芝居の「外套」をみて、これぞグラン・ギニョールだと書いている。つまり猟奇、殺人などなどの「観客が失神する」ような演し物で受けていた芝居。ところがオペラ「外套」ではミケーレが、死児の齢を算える好々爺みたいになっている。セーヌの船上生活者のボスなら、もっとアナーキーであってほしい。台本のアダーミが、どうやら三幅対の地獄篇であることを意識することなく、――なんというか、NHK的に――ほどのよい台本にしてしまったのでは。気になったのは、ジョルジェッタとルイージがともにベルヴュの出身だということ。ベルヴュはセーヌ河下流の風光明媚な地で、エドゥワール・マネが晩年、梅毒の療養のため滞在した地でもある(ビュールレ展のパネルで知った)。そのベルヴュの出身の娘ジョルジェッタが、なぜ25歳も年上の船上生活者ミケーレと結婚したのか、不明。よく分からないことは沢山ある。
しかしプッチーニの音楽は、極彩色の強烈なものだと感じた。ヴァーグナーの和声もしっかり取り込んでいるらしい、と思った。進取の気性に富み、挑戦的である。それだけでもこの曲を聴く意義があると思う。
*「修道女アンジェリカ」は不可解。
三幅対の天国に位置づけられるはず。でも、見た目ではやっぱり地獄か、せいぜい煉獄みたい。今回の演出では、終結部に「奇跡」が起こらないので、ますます不可解。修道院とはいっても、女子刑務所のような様子。どうやらアンジェリカの許されざる妊娠、出産があったらしいが。その前のセーヌ河の話があるので、かなり以前からフランスの新生児の過半数が婚外子になっていることを想起すると、100年前の因習・・・と感じざるをえない。そして「公爵夫人」がアンジェリカに遺産を相続させない、アンジェリカの息子は死んだ、と伝えるのだが、舞台では息子らしい男の子がちょろちょろ出入りしているので、公爵夫人がウソをついているらしいと分かる。それはそれとして、なぜ故にアンジェリカが自殺しなければならないかが分からない。(これは、そのあと奇跡が起こっても、やっぱり分からないだろう。)