ドラマの前提は明示せよ! (アナ雪、そして 7dolls 音楽座)
許しがたいので、書きます。(それほどヒマでもないのだが。)
アナ雪2が公開されるのだそうだ。そこでは、なぜエルサが魔法を使えるのか、解明されるのだそうだ。
どういうこと? エルサが魔法を使える、という前提を「アナ雪1」できちんと説明してからドラマが始まるべきではないのか?!
これまでのディズニー・アニメでは、白雪姫とか眠れる森の美女とかにおいて、「魔女」が呪いをかけていたけれども、彼女らは最初から「魔女」という属性をおびていた。だったら仕方がない。魔女でもないアナの姉、エルサがなぜ魔女の属性を帯びているのか、その説明がまったくないのだ。(もちろん、ネットで調べると、家系図とかあれこれのデータに従って両親が、トロルに助言を求めにゆく場面もあるけれども。トロルは対応策を助言するが、解明が為されてはいない。)えーと、小生は録画した「アナ雪」の冒頭部分を三回見直したが、やはり説明がない。あとはどさくさ紛れにストーリーが展開してゆく。ドラマが始まる前提が、きちんと説明されていないのは、小生は受け入れがたい。鑑賞不可能である。(城を訪ねてきたアナを追い返したあげく、雪の化け物に実の妹アナを殺さんばかりに追わせるのも、不可解。)
同様の体験をしたのが、11月に青山の草月会館で開催された「7dolls」。
ポール・ギャリコ原作だそうだ。映画化もされている。とはいえ、この「すごいミュージカル」を現場で見た者としては、不愉快で不可解で、許しがたいエネルギーの浪費としか思えない。以下に知人に送ったメールを再録します。
「いちばん面食らったのは、ムーシュ(主人公)を励ましてくれる7人が、じつは操り人形であること――それはいい――、その7人を、キャプテン・クックが一人で操っているらしいことです。しかも、いかなる条件下で人形が人間になるか、その逆になるか、そのルールが示されないので、悪い夢をみているか、自分がアホなのか、慢性的に分らない。キャプテン・クックが一人で7人を操るのは、物理的に不可能です。(助手が6人いれば可能ですが。それが呈示されていない。)それらしい、太もも丸出しの、『キャバレー』の姐ちゃんじみた7人がいた(うちお釜っぽい男が2名)けれども、彼らが人形を操っている様子は皆無。そして映画『リリー』にあるように、座長キャプテン・クックがひそかにムーシュに惚れていて、言い出せない、という段取りなら分らないでもないが、1幕の末尾付近で、座長がムーシュを手籠めにする(としか思えない)。これが実に残虐な場面でした。(ここで、ボクは帰宅しようと思いました。)映画『リリー』は観ていないけれども、レスリー・キャロン主演とあれば、基本的に、おとぎ話的な、メルヘンチックな仕立てであろうと推測します。(映画で操り人形が、人間のように話しかけても違和感がないだろう。)昨日の舞台は、ブレヒト調で(現実の醜態を暴露する)はじまり、太ももキャバレー女どもは、映画『キャバレー』のコピーとしか思えない。(両大戦間のナチス醸成の社会批判が基本。)どこがメルヘンなのか。失礼ながら、舞台で歌い踊っている劇団のみなさまの自己満足に思われました。お金も手間暇もかかっているらしいけれども。」
【追記】当日会場で立ち番をしていた国際〇〇連盟の女性と話しました。戦災孤児の女の子が、どれだけ酷い目にあっているか、そういうこともアピールしたかったらしい。ふーん。なるほど。それなら、ほかの形式もあるかもしれない。すくなくとも、キャプテン・クックが7体の人形を操る、とか反理性的な前提のドラマを演るのは、ご一考願いたいです。