コートールド美術館展

神保町の東洲斎で、ドイツ人に頼まれた浮世絵を買った。せっかく都心に行ったから、この際東京都美術館に足を伸ばした。なんと、シルバー・デイとかで65歳以上は無料の日だった。
このマネの「フォリー=ベルジュエールのバー」の左上には、空中ブランコの足が描かれている。(鏡に映っている。ラス・メニーナス式なのだ。)カウンターの女性の虚ろな目。これは放心しているのではないだろう。喧噪を極める歓楽施設のバー。どうせ人間の求めるものはその程度なのよね、という諦念と軽蔑と絶望がその目に宿っている。とはいえ「いかようにもご要望に応じます」という、一抹の誠実さも。いわばこのバー・ガールは、19世紀末のパリの女神なのだ。学歴も資産もなさそうな、この女性は、キャパシティをフル稼働させて、現実に対応している。両腕は少々長すぎるけれども、その袖のレース、胸のレースをマネは丁寧に描く。鼻筋にぶっとく塗られた肌色は、「ごめんなさい」と言われたマネの腹いせなのかも。
セザンヌ。「林檎一個でパリを驚かせたい」(音声ガイド)というセザンヌの野心を初めて知った。キューピッドのある静物。吉田秀和が1時間見つめたという、謎の作品。もちろんボクには分らないが。ナンセンスがセンスを侵食する、という設定かと思う。数年前「バカボン歌仙」を作りかけたことがある。やってみると、アホなナンセンス句だけを続けると、どう仕様もなくなる。アホなバカボン句を付けるためには、きちんとしたマジメな句が前後になければならない。セザンヌは、ナンセンスを描くのではなく、観る者の「センス」、つまりものの見方、世界把握のパターンそのものを揺るがし、脆弱なものであるとアピールしたのではないか。
モディリアニの「裸婦」。これは一目で、アイコラであると思った。上部の、斜めにかしいだ頭部が、あまりに体幹部とつながらないのである。
この間、さまざまな点で、金持ちは芸術をやるのに有利であることを思い知った。マネはアトリエにバーカウンターを造らせ、バー・ガールを招いてモデルをさせた。ドガは親が銀行家で、オペラ座の定期会員だったので自由に楽屋に出入りできた。踊り子のクロッキーなんかいつでも描けたらしい。セザンヌの父は銀行経営者だった、などなど(とはいえ親の世代は一代で成り上がったのが大半らしい)。ツルゲーネフもプーシキンも貴族だった。太宰治は津軽の大地主の「面汚し」、宮沢賢治は高利貸しの「宮沢マキ」の変わり種。ところが(小生の記憶では)日本の小学校では野口英世みたいな「頑張る貧乏人」が強調されすぎるように思う。というか、教師自身が「頑張る貧乏人」だったし、上記のようにドガがオペラ座定期会員だった等々の知識もなかった。そろそろ変わってもよいのでは・・・。とはいえ、今の親世代は就職氷河期の非正規雇用がメジャーらしいから、どうなりますかね。